和賀心新時代

【令和5年元日祭での年頭感話】

みなさま新年あけましておめでとうございます。

令和5年 2023年 教団にあっては教祖140年、そして三代金光様60年というお年柄 当教会は開教116年を迎えました。

お出し頂いた「御礼祈願票」の裏面にある方が「世の中が少しずつ狂ってきているように感じます」と書かれておられました。昨年の元日祭で私は「傾く世界に天地の軸で生きる」というお話をしました。本来、等しく神の氏子である人間、しかしながら現実は誰もが生きづらさを抱えながら生きている。それはこの世界の軸がちょっと傾いているからだと申しました。軸が傾いている。なおかつ世界はものすごい勢いで回り続けている。そのなかで只管走り続け、いつしか疲れ切ってしまう。走るのをやめればその社会の遠心力ではじき出されてしまう。それが一生続く、私とは何かなぜ生きるのかと問うこともなく…

ご晩年の教祖さまと出会われた山本定次郎という方がこう伝えておられます。

はじめてお参りした時、私がまだ何も申しあげないのに、金光様の方から、

「人間は、どうして生まれ、どうして生きているかということを知らねばなりませんなあ」

と話しかけられたので、私は、金光様は何を言おうとされるのだろうかと思った。その時の天地のお恵みについてのみ教えは、一言一言が胸に突きささるようにこたえて、たいへんに感激した。

「どうして生まれ、どうして生きているのか」そのことを悟るのが人間であり、欲せずにはおれない根源の問いであると思います。

私はかねてから、こんなことを考え続けております。

「私達が宗教(信心)と呼んでいるものは、ほんとうは何なのか?何をしているのか」

人が何か大いなるものに祈り願う、そのとき天地宇宙に何が起きているのか?

何の意味もないとは私は思えません。そうであったら、太古の昔から今日まで続いてくるはずはありません。人が瞬きをするくらい自然にそなわったものです。人が祈り願う時、その人の中で何が生じ、それがこの世界でどんな意味があり、どんな影響を与えるのか、もしくは与えられるのか。そして説明できない数々の不思議な現象、体験といったものはいったいなぜ起きるのか?そのことを知りたいと、ずっと思ってきました。

私自身も、昨年、父、先代教会長の死ということがありましたが、そこにも、そしてそこからも、いろいろなことがつながってくる不思議な出来事の中でつよく感じました。

さて、驚いたことに、これまで宗教と対立するものと思われてきた科学の側からも、同じ問いが生まれているのです。私は宗教者の責任として、そのことに真摯に向き合わねばならない、向き合いたい、命ある限り、どこまでできるかわかりませんが、そして、ここからあたらしい世界を生きるひとたちのために信心のほんとうの意味というものを見出したいのです。

いまの人たちは、いわば精神的無党派層という立場の人が多いのかなと感じます。

・現代科学の主張するところの「死とは無に帰すること」(死んだら終わり)

・世間一般の宗教の説くところの「死後の世界」(永久のいのち、天国と地獄、極楽浄土、霊界)

どちらも信じきれない人が多いということです。

或る意味、現代における最大の宗教は「科学」です。マスクもなかか外せません。空気が怖い、なのに未知の化学物質にこれほど多くの人が頼らざるを得ない、この現実がそれを物語っていると私は思う。一方、地球上の大半の人々はなんらかの宗教を信じていて、宗教と科学の関係はどこまでいっても平行線、決して交わらない。そのことは人類にとって福音ではなく悪夢であり、人々の意識にネガティブな影響を与えていると思う。人類発展の妨げになっている。宗教の側にも、これが本来の姿なのだろうか、そう思わせる在り方が少なくないのも、昨今の事例をあげるまでもなくまぎれもない事実です。

科学のほうも、AIの進化など、人間のほうが追い付かないほど、人類の叡智をもってしてもわからない領域に足を踏み入れ始めています。

現代科学の最先端『量子力学』というのがありますが、これは、それまでの物理学の常識では到底説明のつかない奇妙な世界だというのです。

この『量子』は物質ではなく、波動性を持ったエネルギーであることがわかっているのですが、ところが、不思議なことに、外部から観測された瞬間に、一点に収縮した『粒子』となって出現するのです。

『量子レベルの物質』は実際に観測されたものだけが物質化して、観測されない限り『そこにあるかもしれないし、ないのかもしれない』という『可能性の波』として存在しているということです。

もっとザクっといえば

「見ていないものは存在すらしないのかもしれない」といっているようなぶっとんだ話なのです。

「観測問題」と言うのですが、このことを、あくまでも「科学的」(従来の)に説明しようとする人と、それではおさまらない人に、おおざっぱに言えば分かれてしまうようですね。

私は宗教者です。科学も物理もずぶの素人です。研究室も実験室もない。いうなればこの天地が研究室であり実験室のようなものです。

この天地の、誰でも目にする光景にも、以前から私は不思議でならないことがあります。

たとえばこの写真をご覧ください。(写真参照)

海面に輝く光の道、黄陽(こよう)と言います。こんな写真よくみますよね。誰でも撮ろうと思えば撮れます。どの写真でも撮影者(観測者)に向かい光の筋が延びています。けれどもこれが撮影者以外のどこかへ向いている写真がどこにも存在しないのです。

私はあたまを整理したいときに二見浦の海岸にでかけることがあります。早朝か夕方なのでよくこういう風景に出会います。私が海岸を歩くにつれ、光の筋もついてきます。ふと、もし二人の私がいて同時にみれば、二つの景色が存在するかな?と考えました。海岸には観光客やアベック、何人か人がいましたが、彼らが太陽のほうを向いた時、どこにいても彼らにむかって延びる黄陽がみえるはずです。ところが私には彼らに見えている光の筋が、彼らからは私に見えている黄陽を見ることができません。

つまりいくつもの光景が観測者ごとに存在していて、たとえ隣にいようとも、人と同じ世界はみえないのです。いいかえれば同時にいくつもの「現実」が「同時」に存在しているのです。

ここまでくればお分かりいただけたでしょうか。

現代科学にとっても、宗教にとっても、最大の謎はわたしたちの「意識」であるということです。

最近、メタバースということばをよく耳にされるでしょう?フェイスブックという会社も最近「メタ」という名前に改名しましたね。

これは皆さんだれもが驚かれるのですが、内閣府のホームページにこんなことが書いてあるのです。「ムーンショット目標」というのですね。これはかつて人類が月面着陸を目標としたような壮大な目標の意味ですが、

ムーンショット目標1

2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現

とあるのですが、意味わかりませんよね?さらに

ターゲット

誰もが多様な社会活動に参画できるサイバネティック・アバター基盤

・2050年までに、複数の人が遠隔操作する多数のアバターとロボットを組み合わせることによって、大規模で複雑なタスクを実行するための技術を開発し、その運用に必要な基盤を構築する。

・2030年までに、1つのタスクに対して1人で10体以上のアバターを、アバター1体の場合と同様の速度、精度で操作できる技術を開発し、その運用に必要な基盤を構築する。

もう頭がクラクラしてきますね。

さて、内閣府がこうした目標を公に掲げているということは、そこに予算がついて、様々な産業が参入し、とてつもないスピードで技術革新が進んでいるということです。

しかし、それがバラ色のユートピア(理想世界)の未来なのか、人間らしさを喪失したディストピア(暗黒世界)なのかはまだわかりません。しかしそこに向かっていくしか選択肢がないようです。

というか、人間というのは、遺伝子研究とかもそうですが、神の領域に踏み入ってなにかをつくりたがる種族のようです。本能なのかもしれない。カエルの子は蛙ではないけれど、神の子はみずからが神になるような道を辿ろうとするのでしょうか。

ただしそれは科学的、技術的アプローチです。

私たちは「信心して神になる」ことを目標としています。

この二つのせかいはいつかどこかで交じり合うのか?それとも衝突か、はたまた平行線をたどり続けるのか。私は調和と融合に希望をもちます。

いずれにせよ、これからの人類はいよいよ「意識」の謎に迫ることになるでしょう。それは量子科学も宗教も「宇宙意識」の探求こそが、これまでやってきたことの必然的な到達点であるということです。

「先生、そんな難しいこと言って、私らは日々おかげさえ頂けたらそれでええんです」という声が聞こえています。それはそれでいいのです。でも、いま、「人の意識を機械に移植することは20年後の実現も夢ではない」と言われているのをご存知ですか。そういうところまで来ている。いずれ、究極の選択を迫られるときが来るかもしれませんよとだけ今は申しておきます。

五代金光様は「神は人のなかにあり、人は神のなかにあるのです。人は、誕生とともに神性(神心)を与えられております。人間は、自分の心の中にいる神様の存在に気がつかないといけないのです」とおっしゃりました。

なかにあるというと、マトリョーシカ人形のような入れ子構造をイメージしますが、それよりも表と裏の関係とみたほうが理解しやすいと思います。この空間にもみえない裏があるのかもしれない。私達はこのかたちある世界で夢をみる。同じように、かたちのない世界がみる夢がある、それがこの現実なのかもしれないよね、ということです。見ていないものは存在すらしないのかもしれないのなら、「私達が存在する」のは「神がみているから」ということになりませんか?

今日のお話は最先端の量子科学にその着想を得ているのですが、いまは科学者の立場からも

「『宇宙意識』が見る『夢』は、我々の生きる『現実世界』を生み出す『夢』ならば、現実世界を生きる『私』が、実は『宇宙意識』だと気づいたとき、その『夢』の物語、現実世界を変えていくことが出来る」のではないかという仮説がうまれるのですね。

科学が宇宙意識と認める何か、宗教が神とよび、天地の御いのちと呼ぶ大いなるもの、「我々の目の前の世界は、すべて、我々の心を映し出した世界である」まさしく「良きことも悪しきこともわが心から」、仏教のいう「三界唯心所現」 の世界です。さきほどお見せした黄陽の写真のように、私達が観測している世界は一人ひとりそれぞれのなかにある。世界にひとつだけの世界だといえます。あなたの人生を生きられるひとはあなたしかいない。私の人生を生きられる人は私だけ、その世界をみるために私は、あなたは存在している、そのことに人間の生きる意味、尊いものがあると感じます。

金光教祖 金光大神が出会われた神、自分の心の中にいる神様の存在に気づく、おかげは和賀心にあるという信仰世界に、これからの人類の確かな指針となりうる可能性を感じてワクワクしています。

『薫風』新年号巻頭言に書いておりますが、日々のおかげをいただいたら、それはおかげの「花」で、いつかは枯れ、散りゆくものです。なぜ、信心すればおかげがいただけるのか、そこに何があるからか、こころのはたらきの不思議、「和賀心」の神理を探求し、「おかげの実」を多くつけて、人生をよいものにしていただきたいと願っています。

最後に四代金光様のお歌で締めたいと思います。

  目に見えぬ こころの動きがわかるといふ

     賜びしいのちの 奇しきはたらき

    (金光碧水第十一歌集「土」より)

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