願うということ
それは請求書ではなく履歴書
俗に「男の顔は履歴書、女の顔は請求書」と言われていますが、世の中の大半の人が、神様になにかを願うということを請求書のように考えておるんじゃないかと思います。
そういった理由で宗教や信心に抵抗感や嫌悪感をもつ人というのは、実はまともで、心の奥ではほんとうの信心は違う、ほんものの神に出会いたいと願っているのだと私はみています。でも表層的には多分に神様に願うということをおねだりと混同するというか、他力本願的(これも意味の取り違えでありますが…)な生き方だと思っているように見受けられます。だからそういう人たちに「お礼を申しなさい」とか「お礼が足りません」などということばはあたかも請求書のように受け取られるかもしれません。しかしながら、お礼というのは神様から請求されるものではなく、こちらから持っていく履歴書のようなものだと私は申したいわけです。
あるお教会のインスタに投稿されている画像にお広前に掲げられた額がありました。そこにはこう書かれておりました。
「願うということは神様に自分の努力を約束すること」
いまから申すのは、あくまでも私の頂き方で、そこの先生にはいつかあらためて教えを乞いたいと思いますが、願うということの本質をついておられると思うのですね。
私は「感謝の法則」と申しているのですが、神様に本気で何かを願うならば、当然のことながらそれが成就した時の備えというか構えがなくてはなりません。「叶うかどうかわからんけど、とりあえず願っとこう。神様そこんとこどうか一つよろしく頼んますわ」というようなことでは願っていることにもならないしあまりに不誠実です。
たとえば、どこからかお金を借りたとします。いついつまでに返済しますと約束します。そしたらその期限までにすることがあります。寝ておるわけにはいきません。期限がきたときに「すんません、こんだけしかありません。足らんぶんはお詫びしますのでまた貸してください」という人に二度と貸す気にはなれないでしょう。しかしながら神様には平気でそういうことを私たちは言って居るようなところがあるわけです。
けれどもお道の信心はありがたいもので、お礼の足りないお詫びを申すということを教えてもらっております。それはよいのですが、ただ、済んだことはそれでも許していただけるのでしょうが、ここから先のことは、だからそれでいいというようなものではありません。ただでさえお礼の足りないそんな私がここから先のことをしかも大変なことを願っているわけです。ひとつのことが済んでも次から次へと願うことは出来てきますから、はいこれで御仕舞いですということはないはずです。それなのに「神様、またひとつお願いします。叶ったときにお礼が足らんぶんはお詫びしますので…」というような頼み方をしてくる人に、あなただったら一肌ぬぐことができますか?ということなんです。神様へ願うというのもそういうもので、請求書ではないんです。自分がそうありたいと本気で神様に願ったのであれば、当然、それが叶った時にふさわしい自分になっていこうと努めるのが人間としての誠実さであろうと思います。本気で願ったつもりでも、その自分をごまかすようなことで、どうして神様など信じることができるのでしょうか。
神様へのお礼というのは願いが叶ったその対価ではないのです。おかげの代償でなどありえない。仮にそうであるなら、どれほどしても足りることはないでしょう。神様はそんなものは求めてなどおられない。神様はあなたの外にも中にもおられ、願ったそのときには神様はすでに動き出しておられる、というより、それよりずっと前から、助かってくれよと気づきを促し続けてくださっている。そのことが解った自分でありますということを証していかねばならない、そうでないと信じているということにはならないのですね。他人事じゃなく他でもない自分自身が願ったことです。そしてそれが叶った時、お礼の足りない自分だということも、これまでを振り返れば認めざるを得ない。それならば今から足していこうという心の向きになってはじめて願ったということになるわけです。ここでまだ「そんな叶うかどうかわからんことにお礼など申しても叶わなかったら損ではないか」と思うのであれば、水増し請求書を書いているようなもので、神様に嘘を言うのと同じなので、それならやめたほうがまだましというものです。
それが願うということは神様に請求書をもっていくことではなく、自分が願ったおかげに等しいお礼を積み重ねてきましたという履歴書であるということです。そのお礼を申すにも努力が要ります。工夫が要ります。それが信心の稽古という表現になるわけです。しかし神様のおかげというのは願った以上のものなので、お礼が足りたということはこれまで一度たりとてありませんでしたし、これからもないでしょう。