傾く世界に天地の軸で生きる
【令和4年元日祭での年頭感話】
昨年、有名な大金持ちが宇宙旅行をしたニュースがありました。私は、宗教家らしくないかもしれませんが、宇宙というところにはほとんど関心がないのです。子供の頃は宇宙に憧れていましたが、いまは宇宙なんて行きたくもないです。そんなことしなくても、お金も何も持たずに来ることのできた “此処がどこなのか”というほうに、よほど関心があります。
地球というところは、丸い天体であって、北極と南境を貫く地軸が、太陽の周りを回る公転軌道に対し、23.4度傾いていると言われています。それゆえに四季の移りがあるとされています。しかし、私達のだれひとり、自分が地軸の傾いた星の上にいて、一秒間に30㎞もの速さで進んでいると実感できている人はいないでしょう。そのことを知らなくても生活になんの影響もありません。地球が傾いるとは感じませんが、しかし私は「世界は明らかに傾いている」と思うのです。それも23.4度くらい。23.4度ってかなりの傾斜ですよ。私が何を根拠に世界が傾いているというのか、それは、「富の偏在」です。偏在は、遍くあるほうではなく偏っているほうの偏在です。世界が傾いていなければ、富の偏在など起こりようもないと思うからです。もしも世界が平らかであれば、富も、遍く全てのところ、すべての人に平等に行き渡るはずです。ところが現実はまったく異なります。
昨年12月26日の共同通信の記事にこのようにありました。
世界上位1%の超富裕層の資産が今年、世界全体の個人資産の37.8%を占めたことが、経済学者ら100人超による国際研究で分かった。下位50%の資産は全体のわずか2%だった。コロナ禍で落ち込んだ景気への刺激策で株式などの資産価値が急騰、格差が一段と広がった。
特に最上位の2750人だけで3.5%に当たる13兆ドル(約1490兆円)超を占め、富の集中は鮮明。研究報告書は「不平等は今後も広がり続け、巨大な水準に達する」と懸念し、富裕層や巨大企業への課税強化が不可欠だと訴えた。 日本も富の分布は「西欧ほどではないが非常に不平等だ」と指摘した。(ワシントン共同)
算出の仕方などでいろいろな説があるのは確かですが、全人類的規模で、想像を絶する格差が生じていることは確かなことでしょう。そこまでの富の力をもってすれば、資本がものいう世界ではすべてがコントロール可能ということになってきます。コロナ禍すら、儲けになる世界があります。
例えていうと、丸いお盆の上にドングリが蒔かれています。ドングリというのはここではお金に相当します。私達小動物は、その上で生きています。そのお盆が平らであればのどかなものですが、23.4度の傾きをもって、地球がそう言われているようなものすごい速さで回り続けている。するとどういうことが起きるでしょうか、傾いた方へ富が流れはじめます。それを求めて小動物たちは必死で駆けまわります。もしそのことに疑問を感じ、走るのを止めれば、たちまち遠心力でその社会から放り出されてしまうのです。
実は、世界をお金で動かしている1%の人たちというのは、そのお盆の中ではないどこかで、どこへ傾けるかを考えているのでしょう。戦時であれ、平時であれ、同じことです。ある分野、例えばエネルギー、メディア、いまならA Iなどのテクノロジー、それらを使って自分達に都合のよい世界をつくろうとするなら、その方角へお盆を傾ければ、そこに商機、ビジネスチャンスが生まれ、投資が動き、人が集まり、産業が発展します。自分達で何もしなくてもそういう社会を盆の上の小動物たちが働いて造ってくれるのです。もしそういう立場にあれば私でもそう考えるでしょう。
そのような世界ですから、人々はかくも忙しく、他人を振り払い、ドングリを求めて駆けずり回らねばならない。そういう世界だということはこの推計をみれば事実でありましょう。
私たちは富の奴隷なのでしょうか、何のために生きているのでしょうか。けれども、神様がお造りになったこの天地、ここには軸の傾きなどどこにもありません。
21世紀の初めにあたり、本教は『金光教宣言』でこのように謳いました。
大いなる天地に生かされる人間として
すべてのいのちを認め、尊び、
神と人、人と人、人と万物が
あいよかけよ で共に生きる世界を実現する
かの福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず」と言われましたが、この宣言はさらに
「天は人の上に物を造らず、人の下に物を造らず」
「天は人の上にお金を造らず、人の下にお金を造らず」
すべてが共に生きる関係と謳うのです。
物や金が、人の下に置かれることで、物の粗末が生じます。
反対に、人の上にそれらがくれば、人が粗末にされてしまいます。
そのどちらでもない、新たなる世界を実現しようという宣言であると私は捉えます。
本来、世界はシンプルです。人は、大切な人、大切なものにかこまれて、自分もそれらを大切にできたら、それだけで幸せです。「大切なものは大切にしているに決まっているじゃないか」と思うでしょうが、案外そうでもないのです。子どもが遊んでといっても、今忙しいから…とか、後回しにしたことありませんか。子どもは大事、でも学費や、ご飯をたべさせなきゃ、そのためにはお金もいる。子も、仕事も、お金も、時間も、自分の体も、みんな大切なのです。でもいっぺんにはできない。それだけならまだしも、見栄、気位、世間体とか、我執、我情我欲ですね、そんなどうでもいいようなことにいつのまにか囚われ、自分の周りに集めているときがあります。すると、言っていることとやっていることに齟齬が生じます。どうでもいいことをかき集めながら、そのなかで大切にされよう幸せになろうというのですから…。この矛盾こそが前々のめぐりあわせで難を受けという「めぐり」の真相です。そこから救い助けたいから、信心しておかげを受けなさいというのが神様の御心です。私たちはそのときどきで何を優先すべきか分からないことがあります。神様抜きにどれがいちばんよいのだろうかと考えるから悩むのです。まず、「神様、金光様!」と願ってみてください。神様を第一にもってくる。そうすればあとは何でもよいのです。そこにご都合がいただけるからです。前々のめぐりあわせで難儀する私から、後々のお繰り合わせに安心して身を任せていく生き方に転じるのです。
今年もまたいろいろと大きな変化があるかと思いますが、何を大切にするのか、そのことがあらゆるものごとを分けていくような気がします。文化というのは、分化=分かれていくことであるといわれます。確かに、個人の自由が認められない統制された社会は文化を失います。今の世界情勢をみていますと、文化というより文明が分岐点にさしかかっているのかもしれません。
モノの時代から心の時代へ…というのは、モノをつくらないとか、そういうことじゃないですね。いくら心の時代だと叫んでみてもそんな時代は来た試しがない。教祖様も「世の中はもう信心でなければいかんと、みな人が言うておろうがな。口で言うても、信心はせん」と仰っておられます。昔から人間は変わりません。口では心の時代だと言いながら、心の時代を生きる覚悟がないのだと思います。心の時代というのは、まさにその寂しさをのぞき込む勇気というか、覚悟の問題なのだと思うのです。人が会えない、集まれない、そういう時間が長くなり、寂しいですわという声を聴くことが多かったのですが、その寂しさこそ、実は大切なものなのかもしれない。そこに神様との対話のきっかけがあるかもしれないからです。寂しさをモノで埋め虚しく生きるのか、寂しさをみつめ豊かな心でいきるのか、これから、ふつうであれば十年くらいかけて変わっていくことがあっというまに変わっていくかもしれない。それだけに身に徳を受けておくことが大切ではないかと思うのです。四代金光様のお言葉に「心配しいしい心配するのでなく、お礼を言い言い心配させていただきなさい」と教えていただきます。同じ心配するのでも身を削る心配と、身に徳がつく心配があるということです。
教団では、神様の生まれるお広前の働きにふれてほしい、神様との対話をもっとしてみませんか?と社会に向けて発信し続けています。その最たるは、お取次ぎでありますが、「神様との縦軸」を確かめながら、一人一人が神様との物語を編んでいこうという、そういう願いをもっているのです。私なりにそのことを一言に集約するなら、「傾く世界に、天地の軸で生きる」となるのかなと思い、今日の元日祭にあたって、提唱したいのです。
今の世界の状況に、不安をお感じになられていると思いますが、「この神様は、どんなことでも、願えば聞き届けてくださる。これまでは、信心しておかげのあることが不思議だと思われていたが、この神様はそうではない。おかげのないことが、むしろ不思議なこと」、そのような世界があることを、みなさんはすでにご存知であるはずです。これから受けていくひとつ一つのことが、これまでやってきたことの答え合わせのようなものです。コロナいつまで続くのでしょうかと、コロナ軸ではなく、神様あっての私ということを軸、第一に置いて、神も氏子あっての神であるよと、いつも見えないけれどそばにいてくれる、あなたの内なる神様に出会ってください。