伊勢教会が大切にしていること
金光教伊勢教会のホームページへ、ようこそお越しくださいました。
信仰をお持ちの方も、これまで宗教と縁のなかった方も、何かに悩んでいる方も、ただ少し気になって立ち寄られた方も、どうぞそのままでお読みください。
私たちは、ここを「何かを教え込む場所」ではなく、天地の中に生かされている自分自身と、静かに出会い直す場所にしたいと願っています。
傾く世界に、天地の軸で生きる
私たちが生きているこの世界は、本当にまっすぐなのでしょうか。
地球の地軸は、公転面に垂直な軸から約二十三・四度傾いているといわれます。けれども、地上に立つ私たちは、その傾きを感じません。
自分はまっすぐ立っている。地面は平らである。誰もがそう感じながら暮らしています。
それと同じように、私たちは、世の中そのものが傾いていることにも、なかなか気づきません。
豊かになれば幸せになれる。
成功すれば認められる。
人より遅れなければ安心できる。
役に立っている間は、ここにいてもよい。
私たちは、そうした世の基準の中で、懸命に生きています。
立ち止まれば取り残される。
少し歩みを緩めれば、居場所を失ってしまうかもしれない。
だから疲れていても走ります。自分が本当はどこへ向かいたいのかを考える間もなく、周囲と同じ方向へ走り続けます。
けれども、富や成功や安心は、誰にでも同じように行き渡るわけではありません。集まるところには集まり、届かないところには届かない。
努力だけでは越えられない差があり、生まれた場所や境遇によって、最初から立っている位置も違います。
それでも私たちは、この世界の基準を疑うより先に、
「自分の努力が足りない」
「もっと頑張らなければならない」
と、自分自身を責めてしまいます。
しかし、傾いているのは、本当に私たち一人ひとりなのでしょうか。
私たちが「正しい」「まっすぐだ」と信じてきた世の基準そのものが、すでに傾いているのかもしれません。
世の中で正しいとされる生き方。成功と呼ばれる姿。こうでなければならないと信じてきた基準。
それらは本当に、天地に対してまっすぐなのでしょうか。
金光教には、
建てた柱は倒れることがある。
吊った暖簾にもたれる心になって、おかげを受けよ。
という教えがあります。
普通に考えれば、暖簾にもたれることなどできません。
けれども、この世の「まっすぐ」がすでに傾いているのなら、天地の軸に身を寄せて立つ姿は、世の中からは、むしろ斜めに傾いて見えるのかもしれません。
人より多く持つことではなく、いただいたものを分かち合う。
自分だけが先へ進むことではなく、立ち止まって誰かを待つ。
弱さを隠して強く見せるのではなく、助けを求め、助け合う。
役に立つから生きるのではなく、生きていることそのものを尊ぶ。
世の中から見れば遠回りに思える生き方が、天地に対しては、まっすぐなのかもしれません。
私たちが願っているのは、「傾いた世を正してやろう」ということではありません。
この世界に生きながら、傾く世界の基準だけに自分を預けず、天地の軸に支えられて生きることです。
天地の軸に支えられれば、もう、自分の価値を証明するためだけに走り続けなくてもよくなります。
そして、空いた手で、走り疲れた誰かに手を差し伸べることもできます。
天地は、信じる人だけを包んでいるのではありません。
今、迷っている人も、疲れている人も、立ち止まっている人も、すべての命を、すでに包み、生かし続けています。
金光教伊勢教会は、その天地の軸に、そっと身を寄せ直す場所でありたいと願っています。
神様のお心の「通り道」として
金光教の教えに、
神の広前を勤める者は、神の守り、神の前立ちである。
神のお手代わりである。
というお言葉があります。
これは、教師が偉いという意味ではありません。
むしろその反対で、「自分の思いだけで動いてはならない立場に立たせていただいている」という、とても重く、恐れ多いお言葉だと受け止めています。
神様のお手代わりとは、神様のお心を「自分のものにする」ことではありません。
皆様の願いが神様へ届き、神様のお心が皆様へ届くための、通り道を勤めさせていただくことだと思っています。
ですから、教会の教師は、何かを一方的に「教える人」ではありません。
皆様と同じように神様の前に立ち、神様のお働きを共に受けさせていただく者でありたいと願っています。
足りないところの多い身ですが、それでも神様が「ここに立て」と言ってくださる間は、皆様の願いを神様におつなぎし、神様のお心を、できるだけ濁さずにお伝えできるよう、心を磨きながら勤めさせていただきます。
どなたにも開かれた教会です
教会は、どなたにも開かれています。
信仰の有無や、これまでの歩みにかかわらず、どなたでもお参りいただけます。
悩みを相談したい。
静かに手を合わせたい。
誰かに話を聞いてほしい。
金光教のことを少し知りたい。
特に理由はないけれど、なぜか来てみたくなった。
どのようなきっかけでも構いません。
お参りしたからといって、何かを強制したり、義務を課したりすることはありません。教会へ来ることも、しばらく離れることも、その方自身の自由です。
十年ぶりにお参りされた方も、昨日も来られた方と同じ笑顔でお迎えします。
「来るもの拒まず、去る者追わず」はもちろんのこと、伊勢教会では、
来るもの追わず、去る者拒まず
の心でありたいと思っています。
来られた方を追い立てず、去ろうとする方を拒まず、そして、いつ帰って来られても変わらずお迎えする教会でありたいと願っています。
お供えについて
宗教とお金をめぐるさまざまな問題を耳にします。
いうまでもなく、お供えは強いられるものではありません。金額を決めて求めたり、お供えの有無によって、人への接し方や祈りの重さを変えたりすることもありません。
金光教におけるお供えは、神様への御礼を、自らの心で形にするものです。
しなければならないものではなく、
させていただけることそのものが喜び
であるべきものだと、私たちは受け止めています。
伊勢教会が今日まで続いてきたのは、歴代教会長とその家族が、まず自分自身の生活の中でこの喜びを味わい、神様と人のためにご用させていただく姿を通して、皆様にお伝えしてきたからだと思っています。
どうぞ、ご心配なくお参りください。
この世界で、どう生きればよいのか分からなくなることがあります。
頑張っているのに報われない。
人と比べて苦しくなる。
自分の価値が分からなくなる。
どちらへ進めばよいのか見えなくなる。
そんな時は、一人で答えを出そうとしなくても構いません。
大丈夫だから安心するのではなく、
大丈夫かどうかを、自分一人で決めなくてもよい。
天地は、今日も私たちを包み、生かし続けています。
金光教伊勢教会は、皆様と共にそのことを受け直し、天地の軸に、そっと身を寄せ直す場所でありたいと願っています。
