あな奇びのみ祖の霊

令和8年 秋季霊神祭

祭主挨拶 髙阪健太郎

令和8年9月23日
秋季霊神祭の祭典中に申し上げたお話です。

ただいま皆さまとご一緒に、祖先賛詞をお唱えいたしました。

あな奇びのみ祖の霊
あな尊のみ祖の神

この「奇び」という言葉。不思議なこと、人の知恵では、とうてい計り知ることのできないこと。そういう意味の言葉であります。親先祖のことを思いながら、この言葉をお唱えしておりますと、私たちが今ここに生きているということも、考えてみれば、まことに「奇び」なることだと思います。

先日、たまたまテレビを観ておりましたら、サザエが映っておりました。それを見ながら、ふと思ったんです。

「あの貝殻って、どうやって出来るんだろう」

ヤドカリじゃあるまいし、どこかで自分にちょうどいい殻を見つけてきて、そこへ入っているわけではありません。では、あの硬い殻は、いったい、どうやって出来るんだろう。

調べてみましたら、サザエは、自分であの殻を作っているんですね。海の中にあるものを取り込みながら、体が大きくなるにつれて、殻の口のところへ少しずつ、少しずつ、新しい殻を作り足してゆく。あの渦巻きの奥の方には、小さかった頃の殻が、そのまま残っています。

私はそれを知って、なんとも不思議な気がいたしました。サザエが殻を作っている。確かにそうなのでしょう。

けれども、もう少し大きく眺めてみれば、海の中にあったものが、サザエという命を通って、あの美しい螺旋の貝殻になって現れている。そんなふうにも見えてきます。

そう思ったあとで、今度は教会の隣の公園を眺めておりました。このところ雨が続きますと、草が、まあ、よく伸びます。刈っても伸びる。抜いても、また生えてくる。

普段なら、「また草が伸びてきたな」くらいにしか思いません。けれども、サザエのことを考えたあとでしたので、ふと妙なことを思いました。

私はこれまで、土があって、その上に草が生えている、そう思っていました。土と草とは、別のものだと思っていた。

もちろん、生物学的には別のものです。けれども、土があり、水があり、雨が降り、日の光があり、空気がある。それらが一つになって、何もなかったように見えるところから、また緑の草が姿を現してくる。

そうして眺めていますと、「土から草が生えている」というより、天地が、ここでは草という姿になって現れているのではないか。そんな気がしてきたんです。

そして――

では、私たちはどうなんだろう。

そう思いました。

私たちは、自分の命は自分のものだと思っています。「私が生きている」と言います。けれども、誰一人として、自分で自分の命を始めた人はいません。

父があり、母があった。その父にも父母があり、母にも父母があった。さらにその父母があり、またその父母がある。どこまで遡っても、「ここから私の命が始まりました」というところには、たどり着けません。

しかも、その親先祖も、初めから一つの家族だったわけではありません。もとは他人であった人と人が出会った。夫婦となった。そこに新しい命が生まれた。その命が育って、また別の誰かと出会った。

そういう出会いが、幾代も、幾代も重なって、今日、ここに私たちがいる。

一つでも違っていたら、私は、ここにはおりません。出会う人が違っても、時が違っても、場所が違っても、今の私は生まれてこなかった。

そう考えますと、

「私が命を持っている」

というよりも、

もっと大きな命の営みの中から、
今しばらく、
「私」という姿をいただいている。

そんなふうにも思えてまいります。

草は、天地から生えてくる。サザエも、海の中にあるものをいただきながら、あの姿になってゆく。そして私たちもまた、土からいただいたものを食べ、水をいただき、空気を吸い、日の光を受け、この天地の外へ一歩も出ることなく、今日まで生きてまいりました。

ならば、

私たちもまた、天地から生まれてきた命なのではないでしょうか。

今日、こうして霊神祭をお仕えしております。

亡き父母を思っておられる方もありましょう。夫や妻を思っておられる方。祖父母を思う方。懐かしい人の声や、笑った顔、何気ない仕草を思い出しておられる方もあることと思います。

その方々もまた、どこか天地とは別のところからやって来られたのではありません。

私たちと同じ天地の中から生まれ、一人の人として生き、人と出会い、喜んだり、悲しんだり、誰かを愛し、誰かに心配をかけ、また誰かを支えながら、その人にしか生きられない一生を生きてこられました。

そして、その命のつながりの先に、今、私たちがいる。

そう思いますと、亡き人を偲ぶということも、ただ、「もういない人」を思うことだけではないような気がいたします。

この手にも、この顔にも、ものの考え方にも、ふと口から出る言葉にも、

「ああ、親父と同じことをしているな」

「母とよく似てきたな」

そんなことがございます。

亡き人からいただいたものは、思っている以上に、今の私の中を生きている。そして私もまた、やがて誰かへ何かを渡してゆく。

命というものは、私一人のところで始まったものでもなければ、私一人のところで閉じてしまうものでもないのでしょう。

先ほど皆さまとお唱えした言葉を、もう一度、心の中で味わっております。

あな奇びのみ祖の霊
あな尊のみ祖の神

私は今日、この「奇び」という言葉が、ほんの少しだけ、分かったような気がいたします。

私がここにいる。皆さまがここにおられる。そして、ここにお祀り申し上げている親先祖がある。

そのすべてが、長い長い天地の営みの中に生まれた、まことに「奇び」なることなのでしょう。

亡き人を偲びながら、同時に、その命を受けて、今ここに生かされているわが身をも、ありがたくいただき直したいと思います。

あな奇びのみ祖の霊。
あな尊のみ祖の神。

本日の秋季霊神祭にあたりましての、ご挨拶とさせていただきます。

金光教伊勢教会

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