「私の『これさえ』は、今、何だろう」
皆さんは今、
「これさえ何とかなったらなあ」
と思っていることはありませんか。
病気のことかもしれません。
家族のことかもしれない。
仕事のこと、お金のこと、人間関係のこと。
私たちは、いろいろなことを抱えて生きています。
一つ片づいたと思ったら、また一つ出てくる。
ようやく安心できるかと思ったら、今度はこちらが気になる。
「これさえ何とかなれば」
そう思うことは、誰にでもあると思います。
今日いただいておりますみ教えに、
「おかげを受けられるか受けられないかは、わが心にある。わが心さえ改めれば、いくらでもおかげは受けられる」
とあります。
何度もいただいてきた教えです。
けれども今回、あらためて読ませていただいて、一つの言葉に引っかかりました。
「さえ」です。
考えてみれば、私たちも毎日のように「さえ」と言っているんですね。
「この病気さえ治れば」
「あの人さえ分かってくれれば」
「もう少しお金さえあれば」
「この問題さえ片づけば」
「これさえ何とかなれば」。
ところが、神様も「さえ」と仰っている。
ただ――
神様の「さえ」は、そこではなかった。
「病気さえ治れば」とは仰らない。
「あの人さえ変われば」とも仰らない。
「暮らし向きさえ良くなれば」とも仰らない。
「わが心さえ改めれば」
と仰る。
同じ「さえ」なのに、向きがまるで違います。
私たちの「さえ」は、外へ向かう。
あれが変われば。
これが良くなれば。
あの人が分かってくれれば。
神様がこの願いをかなえてくだされば。
ところが神様の「さえ」は、ぐるっとこちらへ帰ってくる。
「わが心さえ改めれば」。
なかなか厳しい教えだと思います。
「ただ一つ、真の信心をせよというのに、その一つができないのか」
というみ教えもあります。
ただ一つ。
一つと言われると、簡単そうに聞こえます。
十も二十もせよと言われているのではない。
たった一つです。
けれども、その一つができない。
なぜだろうと思うのです。
私たちの前には、いつも「これさえ」が、あまりにもたくさんあるからではないでしょうか。
病気のこと。
家族のこと。
仕事のこと。
お金のこと。
人間関係のこと。
今日のこと。
明日のこと。
いろいろなことに翻弄され、悩みは尽きません。
そうしているうちに、本当に大切な「その一つ」が、たくさんのものの中に埋もれてしまう。
砂漠の砂の中に、小さな金のかけらが一つ埋もれているようなものかもしれません。
金は、そこにある。
なくなったわけではない。
けれども風が吹くたびに砂がかぶさる。
また風が吹いて、また砂が積もる。
私たちも、
「これを何とかしなければ」
「あれを何とかしなければ」
と、一生懸命に砂をかき分けているうちに、
肝心の「その一つ」が見えなくなってしまう。
もちろん、病気は治ってほしい。
困り事は解決してほしい。
家族には幸せになってほしい。
願ってよいのです。
神様にお願いしてよい。
けれども、
「これが変わらなければ、私はおかげを受けられない」
となったら、どうでしょう。
この病気さえ治れば、ありがたい。
この問題さえ解決すれば、ありがたい。
あの人さえ変わってくれれば、ありがたい。
そうやって、私たちは知らないうちに、
「こうなったら、おかげ」
「こうならなかったら、おかげではない」
と、おかげに条件をつけているのかもしれません。
一つの「これさえ」が解決しても、また次の「これさえ」が出てきます。
風は止まりません。
一つ砂を払ったら、また別の砂が飛んでくる。
それを全部なくしてからありがたくなろうとしたら、私たちはいつになったら、おかげの中に立てるのでしょう。
神様は、
「それが全部片づいたら、おかげをやろう」
とは仰っていない。
「わが心さえ改めれば、いくらでもおかげは受けられる」
と仰る。
そして、この「いくらでも」という言葉も、私は以前とは少し違って聞こえるようになりました。
「いくらでも」というのは、おかげの数がどんどん増えていく、ということだけではないのではないか。
一つのおかげをいただく深さが、いくらでも深くなっていく。
そういうことではないかと思うのです。
たとえば、一膳のご飯をいただく。
「今日も食べられてありがたい」
それもおかげです。
けれども、少し心が開けてくると、
このお米を作ってくださった人がいる。
雨が降った。
太陽が照った。
土が育ててくれた。
運んでくださった人がいる。
炊いてくださった人がいる。
そして、それを食べて命に変えてくれる、この体がある。
ご飯が二膳、三膳に増えたわけではありません。
同じ一膳です。
けれども、いただくおかげは深くなっていく。
十年前には分からなかったことが、今になってありがたく思えることもあります。
その時には、
「どうしてこんなことになったのか」
としか思えなかった。
けれども何年もたってから、
「ああ、あの時のことが、ここにつながっていたのか」
「あの時にも、神様はお働きくださっていたのか」
と気づかせていただくことがある。
出来事が変わったわけではありません。
変わったのは、いただく私の心です。
そう思うと、
「いくらでもおかげは受けられる」
というのは、おかげをたくさん集める話ではないのでしょう。
同じ天地の中で、
同じ人生を生きながら、
いただくものが、いくらでも深くなっていく。
けれども――
そう分かったからといって、明日から何でもありがたく思えるかというと、そんなことはありません。
また腹も立つでしょう。
また心配もする。
「あの人さえ変わってくれたら」
と思うこともある。
「これさえ何とかなれば」
と、きっとまた思います。
私もそうです。
だから、「わが心を改める」というのは、一度改めたら出来上がり、ということではないのでしょう。
私たちはみんな、まだ旅の途中です。
「急いては事を仕損じる」といいます。
心まで急いで改めようとしなくてもいいのだと思います。
ありがたく思えない自分を責めて、
「こんなことでは信心が足りない」
と自分を追い込んだら、
それもまた、肝心の「その一つ」の上に砂をかぶせてしまうことになるのかもしれません。
今日、一つ気づく。
また迷う。
そして、また帰ってくる。
「私は今、何を変えようとしているのだろう」
と。
相手でしょうか。
境遇でしょうか。
神様でしょうか。
それとも――
わが心でしょうか。
信心というのは、迷わない人になることではないのかもしれません。
迷っても、帰るところを知っている。
いろんなことがある。
いろんなことで悩む。
それでも、帰ってくるところが一つある。
「わが心」。
「ただ一つ、真の信心をせよというのに、その一つができないのか」
その一つを、私たちは一生かけてさせていただいているのかもしれません。
ですから今日、私は皆さんに、
「心を改めましょう」
と申し上げて終わろうとは思いません。
私自身が、まだその道の途中だからです。
明日も、いろいろなことがあるでしょう。
腹の立つこともある。
心配することもある。
思うようにならないこともある。
そしてまた、
「これさえ何とかなれば」
と思うでしょう。
その時です。
今日の話を全部忘れてくださっても結構です。
ただ一つだけ、思い出していただけたらと思います。
「私の『これさえ』は、今、何だろう」
と。
私たちの「さえ」は、外へ向かいます。
けれども神様は――
「わが心さえ改めれば」
と仰る。
ただ一つです。
けれども私たちは、まだ、その一つを求めて…
一筋の道の起伏や風薫る
その旅路を行く道中です。
令和8年8月10日教会長・月例祭教話より
