手のひらの余韻

日常に信心のひかりをあてる小さな小品集です。

vol.2

未知への入り口

夜、居間でひとり、スマートフォンを握っていた。

エンターキーの上を、親指が行ったり来たりする。

画面には、

「二十年後の姿を生成します」

とある。

たったそれだけの言葉なのに、押す前に妙なためらいがあった。

一歳の孫が、二十年後、どんな顔になるのだろう。

そんな軽い好奇心だった。

けれど指先は、まるで禁じられた扉に触れる時のように、少し緊張していた。

数秒後、画面に若い女性が現れた。

驚くほど整った顔立ちだった。

芸能人の宣材写真のように、光の当たり方まで完成されている。

けれど、目だけは、たしかに孫だった。

私は可笑しくなって妻に見せた。

案の定、こっぴどく叱られた。

「そんなことして。気味悪いわ」

たぶん、そう言うだろうと思っていた。

けれど私は、叱られながら、どこかで「やはり人間には、まだ境界線があるのだな」と感じていた。

しかし考えてみれば、人間というのは、その境界線を少しずつ踏み越えて生きてきた生き物でもある。

思春期の頃、私は山口百恵の歌に妙な胸騒ぎを覚えた。

ピンク・レディーの振付を見た時も、「こんなものを子どもが見ていいのだろうか」と、少し戸惑った記憶がある。

いま思えば可愛いものだが、当時はそれでも十分に“未知”だったのである。

ところが今では、もっと刺激的なダンスを、小学生が当たり前のように踊っている。

時代というのは、昨日までの驚きを、あっけなく日常へ変えてしまう。

そういえば、インターネットが現れた頃もそうだった。

まだブロードバンドではない。

接続するたび、モデムが「ピ〜……ガガッ……」と、不穏な音を立てた。

友人に勧められて初めてネットにつないだ夜、私は妙に怖かった。

無免許で都会の高速道路へ入るような、あるいは、小さな小舟で夜の海へ漕ぎ出すような心細さがあった。

「こんなこと、本当にしていいんだろうか」

世界のどこかと突然つながってしまう感覚。

それは便利さより先に、畏れに近いものを伴っていた。

だが今では、お年寄りも子どもも、スマートフォン片手に、いつでも世界へ接続している。

買い物も、映画も、銀行も、人付き合いも、みんなそこへ入ってしまった。

機械ものに疎い妻でさえ、ごく自然にお気に入りのユーチューバーの動画を眺めている。

それほど現実世界と仮想空間が地続きになった今、あの頃私が感じた“恐怖”を話しても、たぶん実感は湧かないだろう。

人間とは、そうやって未知を飼い慣らしていく。

空を飛ぶこともそうだった。

手術も、人工と名の付くものすべてが、最初はそうだったに違いない。

最初はみな、「そんなことをしてよいのか」と震えながら近づいたのである。

私の空想は、ふと足下へ及んだ。

教祖の金神信仰も、きっと同じだったのではないか。

「逃げとけ、避けとけ、回っとけ」

そう恐れられていた金神を、正面から拝む。

それは単なる信仰ではなく、人々にとっては、《禁じられた境界》を越えることだったに違いない。

だからこそ、そこには大きな感動があった。

いま、「金光教はこんなに穏やかで常識的なのに、なぜ人が来ないのでしょう」と言う人がいる。

けれど私は、内心こう思っている。

――だからなのだ、と。

本当に新しいものには、最初、少し怖さがある。

信仰にも、もともとはそういう震えがあった。

そして今、歳を重ねた私は、別の恐怖を持ち始めている。

「死」である。

若い頃は、死は遠い言葉だった。

しかし最近は、ときどき妙に現実味を帯びて近づいてくる。

夜中にふと目が覚めた時。

近しい人の訃報に触れた時。

そのたびに私は、自分が少しずつ、未知の入口の近くへ来ていることを感じる。

けれど考えてみれば、死ほど未知のものはない。

誰も完全には説明できない。

つまり人は死ぬ時、最後の未知へ飛び込むのである。

そう思った時、私は、あのAIの生成ボタンを押した瞬間を思い出す。

怖かった。

だが同時に、どこかワクワクしていた。

信心というのは、その未知への恐れを、天地への信頼へ変えていく営みなのかもしれない。

死は、暗闇ではなく、まだ見ぬ世界への入口。

その時私は、怯えながらではなく、

「ああ、次はこういう世界か」

と、少し微笑みながら入っていける人間でありたいのである。


vol.1

影のできない人はいない。

そんな当たり前のことを、ある日ふと思った。
道を歩いていても、洗濯物を干していても、夕方の玄関先でも、影は黙って足元についてくる。こちらが忘れていても、向こうはきちんとそこにいる。

影を見ると、不思議と安心する。
ああ、自分は照らされているのだ、と気づくからかもしれない。

金光大神は、
「おかげとは、めいめいの真に映る影のこと」
と教えられた。

影は、形に添う。
それはとても静かで、容赦のないことだ。
どれほど立派な影を望んでも、もとの姿をごまかすことはできない。

背を丸めれば、丸い影になる。
手を広げれば、影もまた広がる。

大きなおかげをいただきたいなら、大きな真を向けてみよ、と仰る。
けれど「大きな真」とは、何か壮大な決意のことではない気がする。

たとえば、湯のみを両手で受け取ること。
名前を呼ばれた時、きちんと返事をすること。
疲れている人に、少し椅子を寄せること。
そういう小さな真心が、人の輪郭を少しずつ整えていく。

すると、影もまた変わっていく。

影ばかり追いかけていると、苦しくなる。
でも、照らされていることを忘れなければ、影は自然に生まれる。

夕暮れの道で長く伸びた自分の影を見ると、
神様のおかげというものは、案外こういうふうに、黙って地面に映っているのかもしれない、と思う。

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