それでお礼になる

金光教の教えに、こんなお話があります。
ある人が、居ても立っても居られない思いでお参りをし、
「突然お参りしましたので、何もお礼を持って来ておりません。
何をお供えすれば、神様がお喜びくださるでしょうか」
とお尋ねしました。

この人は、最初から手ぶらで来ようと思っていたのではありません。
ありがたくて、申し訳なくて、
この有り難さをどう表せばよいのか分からず、
問いを抱えたまま駆けつけたのだと思います。

すると教祖は、
「何もお礼を出すことはいらない。
自分が受けたおかげを手本にして、
世の中の人を助けていけば、それでお礼になる」
と仰せになりました。

「お礼になる」という言葉は、
私たちが何か立派なことを“した”という意味ではありません。
御礼をしたわけではないけれど、
神様のほうで「それでよい」と受け取ってくださる
そこに、金光教らしいやさしさがあります。

その愛を感じるからこそ、
自分が受けたおかげを
人に示す「見本」にするのではなく、
自分の歩みとして差し出す「手本」にすることができます。

立派にできていないところも含めて、
「こんな私でも、こうして助けられてきました」
と置いてみる。
そこから先を、相手に委ねる。

いただいたおかげを、
「これで終わり」と成果にせず、
これからどう生きていくかという向きにしていく。
その歩みそのものが、
「それでお礼になる」生き方なのだと、
教えられているように思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です