証文のある世界で
「人間は、生まれる時に証文を書いてきているようなものである。」
そう教えられると、
やはり一瞬、息が止まる。
しかも
「生まれた時に悔やみを言いに行ってもよいくらい」という。
人生には、あらかじめ災難や不幸が織り込まれている。
どういう厄があるかは、すでに決まっているという。
ここだけを聞けば、運命論に思える。
けれども教えは、そこで止まらない。
「信心を強くすれば、大厄は小厄にしてくださり、小厄はお取り払いくださる。」
証文はある。
しかし、展開は変わる。
これはいったい、どういう世界観だろうか。
最近、この世界は仮想現実である可能性が高い、という説を耳にする。
もし人生が、あらかじめ無数の可能性を書き込まれた“ソフト”のようなものだとしたら。
出来事の候補はすでに存在している。
しかし、どのルートを通るかは、プレーヤーの選択によって変わる。
信心とは、その「選択」なのではないか。
神は全体をご承知である。
私たちは時間という一本の線の上を歩いている。
横から見れば、ただの線。
上から見れば、円盤のように全体が広がっている。
証文があるというのは、固定ではなく、
“可能性の総体が書き込まれている”ということなのかもしれない。
そして神は、その全体を知りながら、
なお、共に歩む。
これは孤独なゲームではない。
プレーヤーは一人ではない。
信心を強くするというのは、
神との共同プレイを選び直すこと。
そのとき、厄のルートが変わる。
大厄が小厄になる。
小厄が消えていく。
それを「おくり合わせをいただく」という。
さらに言えば、
この選択は自分一人の問題ではない。
家系に流れる傾き、
積み重なった心の癖、
体質や性向。
それらもまた、証文の一部かもしれない。
しかし、ここで信心をいただく者があれば、
流れは変わる。
後の者が助かるとき、
先の者もまた喜ぶ。
運命は決まっている。
しかし決まっていない。
それは矛盾ではなく、
関係の中で動く世界の姿なのだろう。
証文があるということは、絶望ではない。
神がすべてを知ったうえで、
それでも共に歩もうとされているということ。
避けられないものはある。
しかし、避けられないままでは終わらない。
信心は、運命を否定することではなく、
運命の中で神と向き合い直すことなのだろう。
だから私は、
証文のあるこの世界で、
今日も神様と相談しながら歩いていきたい。
