迷〔心〕打破

金光教の教えに、次のようなお言葉があります。

「だれでも、生まれる日と死ぬ日とは自由にならないのに、生きている間だけ日柄とか何とかと言う。どのような所、日、方角も、人間に都合のよいのが、よい所、よい日、よい方角である。日柄方角などで、神が人間を苦しめることはない。」

このお言葉は、ともすると
「日柄方位は迷信だから関係ない」
という意味に受け取られることがあります。

けれども私は、そういう単純なお話ではないと思っています。

実は若いころの私は、日柄や方位というものを、出鱈目ではないかと思っておりました。そんなものに意味があるとは思えなかったのです。

しかし教祖のご生涯を学ばせていただく中で、これはただ事ではない、と感じるようになりました。

教祖は決して軽々しく、日柄方位など関係ないと仰ったのではありません。
むしろ金神様の底知れぬご神威の前に、
「凡夫で相わからず」
と自覚しておられました。

その畏れの中に立たれたからこそ、神様の信用をいただき、日柄方位などから自由にしていただかれたのだと思います。

ですからそれは、天の理がなくなったということではないでしょう。
ただ人間がそれを計り知ることはできないということではないでしょうか。

私は、迷信打破ということを考えるとき、
これは外の迷信を打ち破ることではなく、
迷い信心をしている自分自身を打ち破ることではないかと思うのです。

人はどうしても、
「これさえ守っておけば安心」
というものを求めます。

この日なら安心、
この方角なら大丈夫、
これをしておけば間違いない。

そうして安心を形に求めてしまいます。

けれども教祖は、
「生まれる日と死ぬ日は自由にならないのに」
と仰せられました。

自分の生まれる日も選べず、
死ぬ日も選べない私たちが、
その間だけ安心を管理しようとする。

そこに人間の浅はかさがあるのかもしれません。

では日柄方位とは、いったい何なのでしょうか。

天地の仕組みは推し量れませんが、
人間は小天地であるとも教えていただいております。

ですから、このわが身を通してなら、
幾千万分の一か、幾億分の一かは分かりませんが、
天地の働きを察することができるのもまた人間であろうと思うのです。

たとえば風邪のひきかけや治りかけのとき、
熱や痛みが移動していくように感じることがあります。

頭やのどにあった熱が、だんだん下りてきて、
おなかにいき、
悪いものと一緒に下していただいて、
すっきりしていく。

体の中で何かが巡り、整えられていくような感覚があります。

それは決して体が自分を苦しめようとしているのではなく、
むしろ治そうとしている働きであります。

天地の働きもまた、
それと同じではないでしょうか。

神様は日柄方位などで人を苦しめるのではなく、
生かそうとして働いておられるのだと思います。

生命を生かし、守り、巡らせていく働きの中に、
私たちは生かされているのでありましょう。

教祖が
「日柄方角などで神が人間を苦しめることはない」
と仰せられたのも、
その深い愛からではないかと思います。

ですからこれを、
「迷信だから関係ない」
と言ってしまうのは、少し乱暴なことのように思います。

御取次を頂くということも、
都合のよい日や方角にしてもらうということではなく、
天地の働きの中で、
自分の心の向きを正していただくことではないでしょうか。

教祖は、
「人間に都合のよいのが、よい所、よい日、よい方角」
と仰せられました。

けれどもこの「都合がよい」ということを、
人間の思いどおりになることだと頂いてしまえば、
それは教祖のお心とは違ってしまうように思います。

神様のお働きの中で都合が調うときに、
はじめて本当の意味で
「都合がよい」
ということになるのではないでしょうか。

自分の考えだけで、
この日がよい、この方角がよいと決めても、
神様のお働きにかなっていなければ、
それは本当の都合のよさにはならないのだと思います。

だからこそ御取次を頂き、
心の向きを直していただきながら、
通らせていただくことが大切なのだと思います。

おかげを頂いてこそ、
はじめて本当に
都合を繰り合わせていただけるのでありましょう。

特に私たち信心する者が、
信心のない方に向かって
「日柄方位は関係ない」
と言うとすれば、
それは本当の親切とは言えないかもしれません。

私たちは教祖のお徳に免じて、
そこを通していただいているだけかもしれません。

それを忘れてしまえば、
ただの人間の理屈になってしまいます。

むしろ本当の親切とは、
「あなたもご信心なさい」
と道をお勧めすることではないでしょうか。

教祖は、
「凡夫で相わからず」
と仰せられました。

天地の働きは人間には計り知れません。

だからこそ私どもは、
恐れながら通らせていただくのでありましょう。

日柄方位を打ち破るのではなく、
迷う自分の心を打ち破っていく。

それが迷信打破ということであると、
私は頂き直すことが要ると思います。

教祖のお徳に免じて通していただいていることを忘れず、
どのような日も、どのような方角も、
恐れながら神様の中を通らせていただきたいと思います。

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