品があるのに、柄が悪い
金光教人は、品があるのに柄が悪いくらいが、ちょうどいい。
そんなことを考えています。
「柄が悪い」といっても、もちろん下品であればいいということではありません。
下品はいけない。
でも、ただ上品になればいいわけでもない。
皇族でもあるまいし。
教祖の教えには、ずいぶん生活の匂いがします。
たとえば、
「何を食うにも飲むにも、ありがたくいただく心を忘れなよ」
という言葉があります。
「食べる」ではありません。
「食う」です。
また、こんな教えもあります。
「神は、体の毒を日に日に大便小便で取ってくださる。」
大便小便です。
これを子どもたちに伝えようとすると、私たち大人は、つい言葉をきれいにしたくなります。
「食う」は少し乱暴だから「食べる」にしよう。
「大便小便」はちょっと……。
もう少しお行儀のよい言葉にできないものか。
その気持ちは分かります。
何しろ、子どもたちに信心を伝えたいのですから。
けれど、ここに少しおかしなことが起こります。
信心の継承を願う。
だから、子どもに伝えようとする。
子どもに伝えるのだから、下品な言葉はいけない。
そこで、きれいな言葉に言い換える。
そうしているうちに、信心まで違うものになっていく。
なんとも皮肉な話です。
教祖が「食う」と言われたこと、「大便小便」と言われたことは、単に言葉遣いが乱暴だったということではないでしょう。
食う。
飲む。
働く。
寝る。
腹を立てる。
大便小便をする。
そんな人間の暮らしの真ん中に、神様のお働きを見ておられた。
そこに、このお道の信心があります。
ですから、言葉だけをきれいに洗ってしまうと、その言葉についていた暮らしの匂いまで落としてしまうことがあります。
子どもに伝えるのだからこそ、私はそこを大事にしたいと思うのです。
小学生なんて、「うんこ」が大好きです。
「みんな、今日うんこ出た?」
と言えば、おそらく目を輝かせるでしょう。
そこで、
「教祖さまはな、神様が毎日、体の毒を大便小便で取ってくださる、と言われたんや」
と話したらいい。
笑うでしょう。
でも、
「へえ。神様って、そんなところにもおるんや」
と感じてくれるかもしれない。
それでいいのだと思います。
品というものは、お行儀のよい言葉を使うこととは、少し違います。
教祖は、
「偉そうにするなよ」
と言われました。
また、
「稲穂でも実をつけるほどかがむ」
とも教えられています。
私は、こちらの方がよほど「品」というものを言い表しているように思います。
実がつくほど、かがむ。
ということは——
実のない者ほど偉そうにする。
……あ、言ってしまった。
少々、柄が悪いですね。
けれど、偉そうにするのは、やっぱり品がない。
腰は低くていい。
でも、卑屈になる必要はない。
人を見下さない。
けれど、偉そうな人を必要以上にありがたがることもない。
腰は低いが、態度はでかい。
そんな金光教人が、私は好きです。
そして、ちゃんと信心の伝わった良い子は、きっと、
品があるのに、柄が悪い。
そんな大人に育つのではないでしょうか。
私のように。
……すみません。
今の一言で、せっかくの「品」が少し怪しくなりました。
けれど、信心を次の世代へ伝えるということは、きれいにして渡すことではないと思うのです。
「食う」を「食べる」に直さなくてもいい。
大便小便を隠さなくてもいい。
私たちが子どもたちに渡したいのは、きれいに整えられた言葉ではなく、
その言葉の中に生きていた信心です。
深いものを、難しくしない。
尊いものを、飾りすぎない。
暮らしの中にある神様を、
暮らしの言葉のまま伝えていく。
深い。でも、透き通っている。
そんな信心でありたいと思います。
