土を耕し続ける
十勝の土から、信心の継承を考える
先日、テレビ番組『ブラタモリ』で、北海道・十勝の農業の歴史が紹介されていました。
十勝といえば、今では日本を代表する農業地帯です。広大な畑に作物が豊かに実る風景からは、いかにも肥沃な大地という印象を受けます。
ところが、もともと十勝の土は、決して農業に適したものではなかったそうです。
火山灰に由来する「黒ボク土」には、植物の生育に必要なリン酸を強く吸着してしまう性質があります。
見えない養分
植物の生育には、窒素、リン酸、カリウムという三つの養分が欠かせません。窒素は茎や葉の成長を促し、リン酸は根の発達や実りを助け、カリウムは植物の働きを整え、環境の変化に対応する力を支えます。
ところが、土の中にリン酸があっても、土に強く吸着されてしまうと、植物はそれを十分に吸収できなくなるのです。
この話を聞きながら、私は信心のことを考えました。
神様に向かって願う心、いただいたおかげに御礼を申し上げる心、そして自分の心を改めていくこと。いわば、願いが窒素、御礼がリン酸、改まりがカリウムに当たるのではないでしょうか。
あたりまえという心
私たちは日々、天地のお恵みの中で生活させていただいています。ところが、おかげをいただくことに慣れてしまうと、いつしかそれを当たり前に思うようになります。
健康であることも、家族がいることも、今日一日を無事に過ごせることも、当たり前ではありません。
しかし、当たり前と思う心が、いただいているおかげを御礼の心へと結びつけることを妨げてしまう。
土の中にリン酸があっても、作物の育ちに生かされないように、私たちもまた、十分なおかげをいただきながら、それを信心の育ちに生かせなくしてしまうことがあるのではないでしょうか。
土を取り替えずに
十勝の開拓者たちは、この難しい土壌に加え、厳しい寒さや冷害にも悩まされました。
豆類の栽培が盛んになり、一時は大きな利益を得ることもありましたが、豊作と不作の差は激しく、同じ作物を作り続ければ土の力も衰えていきます。
そこで、てん菜などの作物を取り入れ、家畜の堆肥を土に還し、作物を順番に替えて育てる輪作を行うなど、さまざまな工夫が重ねられてきました。
土が悪いからといって、広大な畑の土をそっくり取り替えることはできません。与えられた土と向き合い、その性質を知り、長い年月をかけて、豊かな大地へと育ててきたのです。
土を取り替えるのではなく、土を耕し、育てていく。
ほんとうの繁盛
金光教には、次の教えがあります。
「おごりがましいことをするな。ものは、細くても長く続かなければ繁盛でない。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛である。道に草を生やすようなことをするな」
繁盛というと、私たちは、とかく目に見える豊かさを思い浮かべます。商売が栄えること、家が富むこと、暮らしが安定すること。どれもありがたいおかげです。
しかし、豊かな収穫が続いているからといって、土まで豊かであり続けているとは限りません。収穫するばかりで土の手入れを怠れば、やがて土は痩せていきます。
信心もまた、同じではないでしょうか。
おかげがあったからこそ
初代が苦労の中で神様に願い、おかげをいただき、家の繁盛の道を開いてくださった。そのおかげによって、二代、三代は、以前よりも恵まれた暮らしを送ることができるようになります。
しかし、そこに一つの落とし穴があるように思います。
おかげがなかったから信心が続かないのではなく、おかげがあったからこそ、信心が続かなくなることもあるのです。
先代には身に染みてありがたかったものが、次の代には、あって当たり前のものになる。いつしか神様からいただいたおかげを、自分の力で得たもの、自分の持ち物のように思うようになる。
豊かな収穫をいただきながら、その土を耕すことを忘れてしまうのです。
それぞれの代の御用
私の祖父は、若い頃の父に「初代には初代の苦労があるが、二代には二代の、三代には三代の、それぞれの苦労がある」と話していたそうです。私もまた、父から同じ言葉を聞いて育ちました。
今になって、その意味を深く考えさせられます。先代が耕してくださった土に甘えるばかりでは、やがて土は痩せてしまう。それぞれの代には、それぞれの土を耕す御用があるのでしょう。
では、信心において土を耕すとは、どういうことでしょうか。
私は、平生からの日参、聴教、そして改まりであろうと思います。すでにいただいているおかげに気づき、それを生かしていく心を育てる営みです。
思いがけない難儀の中で、自分の至らなさを知らされ、改まり、それまでになかった信心が芽生えることもあります。
一代で終わらせない
別の教えには、「信心は、末の安心を楽しみにしないと続かない」とあり、さらに「自分一人がおかげを受けただけではなく、子孫に伝わる信心をすることが大切である」と説かれています。そして、「一代の信心は神が喜ばれない」と結ばれています。
自分一人がおかげをいただいて、それでよいのではない。次の代、そのまた次の代まで、おかげをいただけるようにと願われているのです。
けれども、信心を次の代に伝えることは、決して簡単ではありません。親が一生懸命に信心していても、子供が同じように信心するとは限らない。教会に足を運んでいた人が、いつしか来なくなることもあります。
そのことを、誰かの責任にしてはならないと思うのです。
引っ張って伸ばせない
信心が伝わらなかったといって、子や孫を責めることはできません。伝えられなかった親や先代を責めることもできません。
作物が育たないからといって、農家の人が作物を引っ張って伸ばすことはできないのです。
できるのは、土を耕し、水をやり、必要な手入れをしながら、育つことを願うことです。
「信心しなさい」と言い続けることよりも、自分自身が神様との関わりを楽しみ、日々信心に取り組んでいる。その姿が、知らず知らずのうちに周囲の人の心に残っていく。
信心とは、ある意味で「土いじり」「土遊び」のようなものかもしれません。土に触れ、種をまき、昨日と今日の小さな変化を喜び、何が育つかを楽しみにする。
耕し続ける
金光教祖は、もともと農業を営んでおられましたが、立教に際して農業をやめ、御取次に専念されることになりました。
私は、今回の十勝の土の話を通して、ふと思いました。教祖様は、耕すことをおやめになったのではなく、耕すものが変わっただけなのではないか。
田畑を耕すことから、人の心を耕すことへ。
人間が思いのままに命を育てられるわけではありません。育つ力は、天地のお働きによるものです。
先代がいただいたおかげを誇ることよりも、先代が神様に向き合ったように、自分自身が神様に向き合うこと。次の代がまた耕していける土を残していくこと。
作物を引っ張って伸ばすことはできません。けれども、土を耕すことはできます。
育つことは神様にお任せして、私は今日も、与えられた土を耕していきたいと思います。
