おかげを採点していませんか?

「自分の信心が足りないためにおかげを受けられないのを、神のおかげがないように思っている。神はこれが情けなくてならない。」

なかなか厳しいお言葉です。

でも、考えてみれば、私たちはよく言うんですね。

「これほど信心してきたのに」
「こんなにお願いしているのに」
「どうして神様は、おかげをくださらないのだろう」

病気が治った。
願いがかなった。
困っていたことが、うまく収まった。

そうなれば、
「ああ、おかげをいただいた」
と言います。

ところが、願った通りにならなかった。
病気が治らなかった。
一生懸命祈ったのに、事がうまく運ばなかった。

そうすると、
「おかげがなかった」
と言ってしまう。

つまり私たちは、知らず知らずのうちに、
神様のおかげを「結果」で採点しているのかもしれません。

願い通りになったから、○。
ならなかったから、×。

ところが、これを自分の信心に向けられたら、どうでしょう。

「毎日参っていないから、あなたの信心は×」
「これだけしか御用していないから、×」
「これだけしかお供えしていないから、×」

そんなふうに言われたら、嫌ですよね。

「形だけで私の信心を決めないでください」
「私にもいろいろ事情があります」
「できていないこともあるけれど、私なりに神様を大切に思っています」

——心を見てください。

そう言いたくなる。

それなのに。

神様には、
「私の形ではなく、心を見てください」
と言いながら、

自分は、
おかげの形だけを見て、
神様の心を見ていない。

これは、ずいぶん勝手な話です。

教祖様は、
「おかげがあるのが不思議ではない。信心しておかげが無いのが不思議である」
とまで仰せになっています。

だとすれば、
「おかげがなかった」と思った時こそ、
少し立ち止まってみなければならないのでしょう。

本当に、おかげがなかったのだろうか。

それとも、
私が思っていた「おかげの形」と違っていただけなのだろうか。

願い通りにならなかった、その時にも、
神様は私を見てくださっていたのではないか。

苦しい時にも、
どうにか今日まで生かしてくださった。

人との出会いをくださった。
気づきをくださった。
間違えば、正してくださった。
倒れれば、また立ち上がる力をくださった。

そこに、神様はどんな心をかけてくださっていたのだろう。

今日のみ教えには、

「神はこれが情けなくてならない」

とあります。

私はこの「情けなくてならない」というところに、
神様の寂しさのようなものを感じます。

「どうして分かってくれないのか。
私はずっと、お前に心をかけているのに」

そんな神様のお声にも聞こえてくるのです。

おかげの形ばかりを見て、
神様を採点するのではない。

その向こうにある、
神様の心を見る。

私の信心を、形だけで見ないでください、と願うなら、
私もまた、神様のおかげを形だけで見てはいけない。

「おかげがなかった」と言う前に、

「神様は今、私にどんな心をかけてくださっているのだろう」

そう尋ねてみる。

そこから、信心はもう一度始まるのではないでしょうか。

おかげの形から、
神様の心へ。

|声の教話|に音声版もございます。

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