フェイドアウト
この頃、ときどき、自分が何をしているのか分からなくなる。
教会が好きだ。
お広前が好きだ。
人の難儀を聞かせてもらい、神様に向かって一緒に願う。
そして、その人が少しずつ助かっていく。
こんなありがたい御用はないと思っている。
できることなら、いつまでも続いてほしい。
けれど、信心とは、その人自身が神様に向かい、自分で願い、自分でおかげをいただいていくことでもある。
そう考えると、私は、自分など要らなくなる世界をつくるために、今日もここに座っているのかもしれない。
妙な仕事である。
最近、昔の日本のシティポップが、海外の若い人たちに聴かれているという。
何十年も前の音楽が、SNSやYouTubeを通して海を越え、当時なら夢だったような場所まで届いている。
しかも、彼らが今風の音楽に作り替えたわけではない。
昔のままである。
あるアーティストが、
「このままフェイドアウトしていく人生だと思っていた。最高!」
と喜んでいるのを見た。
なんだか、いいなあと思った。
時代に取り残されたと思っていたものを、
ずっと後になって、時代のほうが見つけに来る。
そんなことがある。
金光教にも、いつかそんな日が来るのだろうか。
分からない。
「あの時代の人たちが踏ん張ってくれたから、今がある」
そう言われるのか。
「あの時代の人たちは、何も変えられなかった」
そう言われるのか。
それも分からない。
私は新しいものを考えるのが好きだ。
けれど、自分の功績を残したいとは思わない。
名前も残らなくていい。
私の言葉を集めた本など、なおさら要らない。
残らなければならないものは、ほかにある。
百年後。
どこかのお広前で、
誰かが難儀を抱えて座っている。
そして、誰かがその話を聞いている。
あるいはもう、
今のような教会も、お広前も、
取次の姿さえないのかもしれない。
それでも、その人が自分で神様に向かって、
「どうぞ、おかげをください」
と願っているなら。
それでいい。
私が残らなくても、
道が通っていればいい。
そのために今日も、
私はお広前に座っている。
