人になる愛になる
このお話はここぞというときに、この人ならというときにするようにしていました。ですので、まだ聴いたことがないと思われた方は、まだ幸いにもここぞというときがなかったか、この人なら言わなくても分かっているから言わなかったということです。この人に言ってもしかたない、と言わなかった方は、先ずいないと思いますので、まさに今、今日がこのお話を聴くためにここにいるのだと思って聴いていただければ幸いです。
山本定次郎という直信の伝えです。
「はじめてお参りいした時、私がまだ何も申しあげないのに、金光様の方から、
『人間は、どうして生まれ、どうして生きているかということを知らねばなりませんなぁ』と話しかけられたので、私は、金光様は何を言おうとされるのだろうかと思った。その時の天地のお恵みについてのみ教えは、一言一言が胸に突きささるようにこたえて、たいへんに感激した」
この「人間は、どうして生まれ、どうして生きているか」私たちは、なにをするためにこの世に生を受けて来たのか、ということ。このみ教えじたいは何度もお話しのなかで聞いてまいりましたし、私もしてきましたが、この「どうして」の部分について、はっきりこうだと聞いたことが実はないのです。当然、私もしていなかったと思うので、今日は、やはりこのことをはっきりさせねばならないと思います。
定次郎師は「その時の天地のお恵みについてのみ教え」とのみ申されているだけで、もじどおり、太陽や、水や、空気、食物といったお恵みのことを話されたのだろうと思うのですが、「どうして、なんのために、なぜ?」といった誰もがかかえる根元的な問い。そこにふれるものがあったのではないだろうか。だからこそ、その一言が胸に突きささったのではないでしょうか。
さて、みなさんにとって、これまでいちばん難しかったことは何でしょうか?
受験であったり就職活動とか、任された仕事上の困難とか、借金、結婚、離婚、子育て、家庭の問題とか、いろいろあると思います。
しかしなによりもっとも難しいこと。これまで何度も遭遇し、いまも抱えていますし、またこれから先も、難しいことであり続けるであろうことがあります。
それは「ゆるす」ということです。
およそ人間が持ち得る心の状態の中でもっとも尊く高潔なもの、人間の成し得る精神活動のなかで、最も難度が高いのは、何と言っても「ゆるす」という心なのだと思います。
100mを9秒で走ることが肉体的極限であるとすれば、精神においては、「ゆるす」ということが、人間の精神性のなせる最高のもの、至高の極みであると思うのです。
誰かを「許せない」のは実はとても苦しい心のあり方です。息を止めていると苦しくなりますね。はやく呼吸をしたい。心も、そう。できることなら許して楽になりたいのです。しかし許せない。どうにも許すことが出来ないから苦しいのです。「ゆるせない」という憤りも、許すという愛や安楽を妨げられている心の叫びなのだということです。
たとえば、満員電車に乗っていて、誰かに足を踏まれたり、逆に踏んでしまったことがあるでしょう。そんなとき、踏んだ側であれば、「すみません。こめんなさい」と許しを乞います。なかには知らん顔の人もいるでしょうが、人であれば許されたいのです。誰だって人から恨まれたり憎まれたくない。
けれども、踏まれた方はどうか。そりゃ謝ってもらうほうがもらわないよりはよいです。ですが、それで足の痛みが消えるのかといえば消えません。「あっ大丈夫ですよ」と返しても靴の汚れは消えません、謝られたところで足の痛みがひくわけではありません。相手はその場を過ぎたら、あなたのことなんて忘れているかもしれない。だからできるかぎり心からの謝罪を求めます。でももし心が感じられなければ、「ちょっとあなた、ちゃんと謝りなさいよ」となりますよね。それでも相手に誠意が感じられなかったら、あなたの怒りはもっと増します。それが高じるとついにはこうなります。相手は謝ったのに、許してもらえないとなると、「だから謝ってるじゃないか!」と逆切れしてしまう。そうなったら、では最初の謝罪はなんだったの?嘘だったの?演技でしたかということになります。
踏まれたほうの足の痛みはことばでは消えないのです。
ゆるすということの難しさはそこにあります。痛くない足でジャンプするのは簡単です。でも踏まれた足で、痛い、傷ついた足で飛べ、走れと言われて出来ますか?ということなんです。
何も傷ついてない、痛みがないときは、ゆるすことはできそうに思います。でもゆるさねばならないときというのは、大抵傷ついています。痛い足で飛んだり跳ねたりできないように、ただでさえ難しい「ゆるす」という心を傷ついた心に求めてしまうのです。
私は、それはとても相手に対する愛を欠いた在り方だと思うのです。
かれこれ四半期世紀さかのぼりますが、私はあるトラブルを抱えていました。あまり具体的にいうのは差し控えますが、あることに対して、キレてしまったんですね。で、あれは認められない、許せないという私の心から、問題が発生したのです。そのころすでにメールというものがあたりまえになっていましたが、メールって、いまならLINEとかなんでしょうが、非常に便利なツールですが、相手の顔色やことばのニュアンスが伝わらず誤解のもとにもなります。なので私はそれ以来、事務的なやりとり以外の、議論や言い合いには絶対に使わないようにしています。でもことばだけでは証拠が残らないし、それこそ感情的になるのを抑えようと、自分なりに論理を組み立てて発信しますよね。しかし相手の受けとめ方や返信はまったく自分の思いとは違っていることが多いのです。
期待した謝罪ではなく先方には先方なりの正義や主張がありますから、もめにもめ、しまいには相手の方から「絶対にあなたのことを許さない」とまで言われてしまいました。
するとふしぎなものですね、私の方だって許せないから言っていたことですが、自分が「許さない」と言われるのはとても嫌な気持ちになるのです。さっきまでは「許せない!」という気持ちだったのが、向こうから「許さない」と言われると、途端に心から余裕が消え、落ち着かなくなります。誤解されている、解って欲しい、はやく許されたいという気持ちになります。しかしそうならないと相手を許せない心がさらに増幅しています。
想像ですが、ややこしい訴訟や裁判沙汰を抱えている人の心境とはそれがもっと差し迫ったものでしょう。そんなものを抱えて明るく健康的に長生きするような自信は私にはありません。
それともうひとつそのことと並行して気づかされたことがありました。
あることで少し厳しい指摘をした信徒に「先生、それは誤解です」と言い返されました。しかし、私はその言葉になぜか無性に苛立ちました。なぜそう感じるのか?その理由をいろいろ分析してみました。するとこういう結論に至りました。
なるほど、その人にはその人なりの“私の考える正しい私”というのがあるのです。で、その人は、どういっているのかというと、「しかしあなたはそれを間違ってとらえている!実に怪しからんことだ。断固糾弾する」と言っているのと同じなんです。
誰にだって、自分の正義があるでしょう。ただそれを相手が自分の思ったように理解しないことを「誤解」つまり誤り、間違いであるとして、正そうとすることは、どうして私の考える正しい私をあなたは理解できないんだ!と超上から目線でみくだしているようなものです。
そうではなく、「あぁ、あのひとはそのように私を理解したのだ」と相手の理解を尊重することが、相手に対する敬意ある態度、愛のある態度なのではないでしょうか。
誤解と理解といいますが、世の中に100%の理解などあり得るでしょうか?自分の事すら分からないのに。100でない以上、たとえ99%分かったしても、1%でも分からなかったら、理解したとは言い切れません。つまるところ、あるのは、良い誤解と悪い誤解くらいではないでしょうか。
「あれ、あのひとはどうして私にあんな態度なのかな?もしかして気があるのかな」という好意的な良い誤解から生まれるカップルもあるでしょう。しかし、逆もあります。嫁姑の間柄とか「あの人が言ってたのはあれはわたしへの嫌味だわ、きっとあちこちで悪口を言ってるに違いない」なんていうふうにとって険悪な仲になるということも多々あります。
人を完璧に理解することも、理解してもらうこともできません。良い誤解、悪い誤解、いずれにしても、少なくとも、相手はそのように理解したのだと、相手の理解を尊重し受け入れるのが、相手への愛のある姿勢だと気づかされました。
そして、段々こう思うようになりました。
「許さなくていい。許してもらわなくていい」と。
これは、いま人を許せない気持ちがある方にも、だれかに許してほしいと願っている方も、それぞれの状況に重ね合わせながら聴いていただければと思います。
誰かが許さないといっても、許してほしいと思ってはいけないのです。
なぜならば、あなたは気づいてなくても相手の足を踏んだかもしれない。少なくとも、自分の言動が原因になって、傷ついたというのであれば、その痛みを抱えた人に「人をゆるす」という人間のもっとも成しがたい究極の精神状態を求めるというのは、とても残酷な態度であると気づくはずです。
誰かを許せないというときはこう考えます。
ゆるさなくていいよ。どうかゆるさないでください。
ゆるしてほしいとき、少なくとも、私の言動で傷ついたと思っている誰かに、その傷ついた心で人を許すなどという難しいことを要求するのは、とても酷なことであり、相手への愛のある態度とは思えません。
ゆるせないとき、ゆるさなくていいのです。誰も手負いのあなたに、ゆるすなどという、そんな難しいことを求める権利はありません。
ただ、ゆるさなくていいということは、だから一生、いつまでも呪っていろということではありません。なぜなら、ゆるすこころになれないこと、人を呪うことくらい、苦しいこと、助からないことはないのですから、そんな苦しい状況にいつまでもいてくださいとはいえない。願わくば、その気持ちが、心の傷が癒えますようにと願うしかないと思うのです。ゆるしてくださいと相手に負荷をかけるより、そのほうがずっと相手に対して愛のある誠実な向き合い方だと思ったからです。
それゆえ、わたしは「ゆるさなくていいよ。どうぞゆるさないで」というのです。
相手にも、自分にも。
そしてその辛い気持ちがはやく癒えますように願います。
それだけです。
どんなに頑張っても、人間にはゆるすことなどできない。許すには傷つきすぎているのです。
ゆるすことができるのは、人間を越えた存在、神様だけです。
けれども、神様の名において、私たちは人を許すということを知ることはできます。
世の中には様々な不条理があります。テレビや新聞のニュースからも、とても許せないと憤慨する出来事が日々流れてきます。
どれだけ信心が分かった気になっても、これでもかこれでもかと、私達に許す心が足りないことを嫌というほど見せつけるのです。
神様は残酷?そうかもしれません。でも私は、そこに神様の愛を感じるのです。
その神様の愛が問うてくるのです。
“それでもあなたはこれを許せすことができるか。私の愛と同調できるか”
ある意味、起きてくる難儀というのは、私達の許せないものの裏返しなのです。
ゆるせることはそもそも難儀にはなりません。
起きてくることには、自分の知らなかった許せないなにかが潜んでいるものです。
だから、あぁ、これは私のなかにある許せないものを教えることで、許しを与えて下さっているのだなと思うことにします。
逆に言えば、少なくとも「ゆるしていることは難儀となっては起きない」のです。
起きたことがゆるせない、のではなく、ゆるせないという私達の心の限界が、私の、あなたの心の限界を、その事象を、現実をつくりだしているのです。
日々、広い心になっていくことが、信心は転ばぬ先の杖という、まさにそのことなのです。
カチンときたり、イラっときたり、ムカついてしまうようなとき、その感情を相手に向ける前に、考えてみてください。なぜそういう反応を自分はするのか。それは、そういう種子(たね)があるからなんです。
ご神前のお書附をみてください。「おかげは和賀心にあり」
この和賀心によって私たちは人になれるのです。私たちはまだまだ心の中に多くの闇があり、わたしたちの知らないゆるせない何かがあるのです。今は仏のような顔をしていても、いつなんどき、鬼の形相が現れてくるかわかりません。神様の名において、すべてを愛すること、ゆるす心を知るのです。
人間にはゆるすことなどできません。できるのは神様くらいです。「ゆるしてください、どうぞおゆるしを」と懇願して、無条件にゆるしてもらえるのは神様だけです。ですので安心して、いくらでも、神様にはおわびできるのです。
神様の大いなる愛で許されている人間が、他人をゆるせないのであれば、それは神様の愛を受けながらその愛に満たされてい居ないということにほかなりません。
人間にはゆるすことはできがたい。でも、ゆるす心をくださいと願うことはできるのです。あるいは、いまちょっとだけお借りすることなら、できるのです。今日一日でも、一ヶ月、一年、なんなら一生お借りしてもよいのです。