視る

「真の道を行く人は、肉眼をおいて心眼を開けよ」(『天地は語る』107)


肉眼をおいてといってもみてはならないということではありません。心眼を開こうにも心すらどこにあるのか分かりません。ただ、私たちの何気ないものの見え方そのものに、ヒントが隠されているように思うのです。
朝夕、10分程お散歩しています。まず伊勢市駅前から外宮参道を南進します。約500mあります。歩けば数分の距離です。しかし500mの高さとなると、登頂は容易ではありません。心理的にも物理的にも距離感がまったく異なります。500mというと、教会からも見える朝熊山がおよそそのくらいです。どうもそのことが受け入れがたいのですね。
さらに言うと、富士山の高さが3700mです。天気の条件が整えば、二見浦や志摩の横山展望台から小さくみえる、それくらい大きな富士山ですが、それがちょうど教会から内宮前の「おかげ横丁までの距離とほぼ同じです。小さな伊勢市のなかに、歩いても50分程、車でも10分少々の距離と、日本一の富士山の高さと、自分の頭の中で整合性がとれないというか、混乱します、水平的な認知と垂直的な認知のずれに脳がバグってしまうのです。
考えてみますと、人間の目は顔の左右についています。
この配置は、周囲の広がり、とくに前後左右の水平世界にたいしては、豊富な奥行きと情報をもたらしてくれます。ところが、上下の垂直世界となると、足下には大地が、頭上には天空が、どちらも我々の視覚や認知を大きく越えて広がっています。その先はまったく「未知」なる世界です。
この身体的構造、そしてそれによってもたらされる視覚的世界は、我々が思うよりずっと、私たちの認知や行動に深くかかわっているような気がするのです。


左右に並んだ両目は、水平世界、横方向への理解と操作には慣れています。距離をはかることはもちろん、選択肢の幅(進路、仕事、人生の岐路)といったものにも、比較したり、最適解を求めることにおいても、そうした把握の仕方をしているのではないかと感じます。
しかし縦方向、垂直世界になると違います。目標の高さというものも、視覚的に高低差が測りにくいのと同様に距離感がつかみにくいのです。難易度、達成困難度も掴みがたく、挑戦はだからいつも不確実です。
選択肢は把握しやすい分、過大評価が起きやすく、目標設計においては距離感がつかめない分、過小評価が起きやすくなるように思います。
なにかを選んだり挑戦するときには、人間のこの特性をふまえておくことは案外大事なことと思うのです。

人間関係においても然りです。
500m先にいる人は、すぐ手の届く存在です。けれども、その人がどれだけ優れていても、その価値を「高く」感じることは少ないと思うのです。
家族、友人、地域の人々、かれらは自分自身の人生に深くかかわっているにもかかわらず、「偉人」「成功者」のような「高名な人」のようには見えない。近くにいることで、その価値が視覚から外れるのです。
一方、500mの山は数十キロ離れていても、その輪郭をはっきりと見ることが出来ますね。そこにある「高さ」のために、たとえ物理的に遠くても、視界の中に存在し続け、印象を残します。実際にあったことはないのに、誰でも知っている、それはその高さが我々の視覚に入って来るからです。

しかし、見逃してはならない大切なことがあります。
それは、高く見える山も、実際に登れば。一歩一歩の積み重ねでできているということです。いま、目の前にいる近くの人も、その積み重ねを経れば、いずれ誰かの視界に入る山に成り得る。あるいは、既にそんな価値ある存在なのに、単に我々の視点の低さによって見えていないだけかもしれません。先日も、ある信徒の同級生に勲章をもらった方がいて、お祝いの同窓会をされたということを聞きましたが、実際、昨日まで身近なふつうの人だったのが、実はすごいひとだったということはありますし、その逆もありますよね。
いわゆる偉人の言葉というのに耳を傾けるのに、隣にいる、あなたのことを思うことに関してはその偉人以上の奥さんの諫言には耳を貸さなかったりしていないでしょうか。

さらに人間と神の関係におきかえてみましょう。
おかげを受けるために、何をさせていただこうかという選択肢はいろいろあります。その中から「よし、日参をさせていただこう」という目標を立てたとします。最初はやれるだろうと思っても、晴れの日ばかりではありません。雨の日風の日、忙しい時、体調のよくないときもあるでしょう。ハードルが高かったかなと思うかもしれません。けれどもそれだって、一日一日、一歩一歩の積み重ねのうちになされるものです。
「真の道を行く人は、肉眼をおいて心眼を開けよ」
肉眼が水平世界を見る眼であるとするなら、心眼は、垂直世界を視る眼かもしれません。しかし人間の目は、垂直方向の奥行きには、本質的に不自由なのです。
水平世界は、見て、判断し、行動することが出来る、人間の知性が及ぶ範囲にありますが、垂直世界は、見ることに限界があり、したがって信じ、託するしかない世界です。それは祈りの世界です。そこにある限界を認め、向き合い、受け入れる、それこそが「神人あいよかけよの世界」の始まりなのではないでしょうか。

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