そいつは知っている
日に日に生きるが信心
教会にお参りになっている方のなかにはいろいろと不思議な体験をされている方が少なくありません。六十代の女性で、こんな体験をされた人がいます。
高校生の頃、学校からの帰り道、伊勢神宮外宮にある勾玉池に寄り道をしたときのこと。季節は真冬、池にはめずらしく一面の氷がはられていて、彼女は若さゆえ、つい氷の池の上に立って、歩きだしてしまったというのです。すると、池の真ん中辺りまできたとき、岸のほうから突然「もどれ!」と大きな声が聴こえ、ハッとわれにかえり急いで陸にあがると、そのとたん氷がメリメリっと音を立てて割れてしまったというのですね。危ういところでした。
ときどき、そういう話をなにかで聞くことはありますが、ほんとうにそういうことがあるのですね。
つい先日、ある臨死体験者のお話をネットでみました。自殺をはかったものの、生き返って来る途中、生まれてから死ぬまでのことを延々と観たそうなんです。そして若い頃に起こした事故のシーンで、思わず「危ない!」と声をだした。そのとき思い出したのは、彼はその事故の直前、同じ声を聴いていたのです。つまりその声は、死後の自分からの声だったというのです。
おそらく、その女性が聴いた声も、死後の彼女自身の声だったのかもしれません。
生きていますと、いろいろ辛いことがあります。実は私もつい最近、「いつまでこんなことが続くのかな。うんざりだ。もう嫌だ。いい加減勘弁してほしい。神様、許してよ!!」と、情けないことですが思ってしまうことがあったのですが、その直後、「それはお門違いだ」と叱られたような感覚というか、言葉にするなら「そのことをおまえは死後の自分にも言えるのか?」という声のごときものが胸にワッと響いてきたんです。
「そいつ(死後の自分のことですね)に面と向かって、そんなことが言えますか!」ということですね。するとです、なぜか次の瞬間、さっきまであった、もううんざりだという気持ちがどこかへ消えてしまっていたのです。思い出せないくらいに。
たぶん、そいつ(死後の自分)は知っているんです。「それはおまえが受けなくちゃいけないことだよ」と。それならば「受けきっておかげになっていくんだろう」「そいつ(自分)を信じればよいんだ」という、安心感みたいなものが満ちて来たのです。
「わが心に神はある」神を信じるということは、自分自身の心を信じて生きること。自分を助けるのは、生かすも殺すもわが心。死後の自分が恥ずかしくならないように「いま」を生きること。それが「日に日に生きるが信心なり」ということかもしれません。