おさがり生活

教会は神様のおさがりで営まれている。
そのなかからお手当としていただいたもので私達家族は生活している。
もしかしたら皆さんは、それは教会という〝特殊な世界〟だけのことと思っておられることだろう。みな働いて給料をいただいて自分が稼いでいると思っておられることであろうし、事実そのとおりであろう。
ではあるが、それが絶対に盤石なものであるかというと、資金繰り、リストラ…不安は尽きない。


そこで提唱するのが「おさがり生活」です。


たとえば、学費。
お子さんの学費を親である自分が払っているとお考えであると思う。
社会に出てから自分の貯蓄で夜間大学を卒業された方もおられる。
そのどこに「おさがり生活」になる余地があるのか不思議に思われるだろう。
しかし、神様を立てるとこうなる。


まず、その学費は、全額を神様におそなえした気になる。
神様は、返済不要の奨学金として全額おさげになられた。
それでもって学費を納め、自分に合った学校に行かせていただけた。

旅行も然り。
自分の金で旅行へ行くのではない。
まず全額を神様におそなえした気になる。
神様は、旅行費全額無料のクーポン券として全額おさげになられた。
それでもって思った以上に楽しい旅行に行かせていただけた。

それだけで、「自分の力で手に入れた」から「いただけた」の世界になる。

いま原稿を書いているパソコンも私が自分の金で買えたものではない。
全額神様におそなえして、神様から、いまの私にいちばんよいパソコンをおさげいただいた。

何をする時もそういう視点にかわるとすべてが輝いてみえてくる。

「この大地もその他の物も、みな神様の御物であるのに、わが物である、わが金ですると思い、神様に御願い申さずにするから、叱られるのは無理もない。神様にお願い申して、神様のご地内をお借りし、今までのご無礼をおわびして建てれば、さしつかえない」と教えられた。
その人は、この度は三階建てを建て、一番上は神様のお間とさせていただきますと約束して帰り、三度目の普請でおかげをいただいたということがあった。

なぜか事が成就しないなぁというときは、このみ教えを思い出してみる。
二階建てのつもりが三階建てになったから、「一番上」は神様にお使いいただく。
そうなると、お供えも「出来ることが有り難い」ものとなる。お供えするのもわが物わが金でするのではないと分かってくると信心もおもしろくなってくる。
なかには「俺は騙されへんで、お供えなんてこれっぽっちもするものか」と意地になっている人もいないわけではありませんが、抱え込んだわが物わが金に縛られているようで、かわいいものです。

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