天に一家

映画『マトリックス』や『アバター』を御覧になったことがある方なら、なんとなくでも、「私という存在の本質は何だろうか?」「この世界はほんとうに現実なのだろうか?」などと考えたことが一度ならずあると思います。
この世の中はあまりにもよくできているし、あまりにも不思議なことだらけです。もし私たちがたんなる物質的存在であるにすぎないのなら、その完成度があまりにも過剰なのです。
私たちの本体(魂や意識体)はどこか別の次元にいて、このほんとうにあるかのように存在する肉体をまとって生きているのかもしれない。実際そのように感じているときのほうが軽やかで、物事もうまく進展していくのです。人はただ真剣に生きさえすればよく、深刻に生きる必要などまったくないのです。この世界を信頼するのなら、深刻さは不要です。子どもたちが無邪気に遊ぶ姿のようにただ真剣にあればよいのです。
ある外国の大富豪が「数億円入った通帳を隠してある」と思い込んで生きていたらほんとうに入ってくるようになった。という話があります。何の根拠もありませんが私も「私は天に通帳があるので必要な時に必要なだけあればよいのだからそれだけは出てくる」と信じていればそうなると思っています。変にありすぎるとなにか良くないことで出て行ったりするのです。ないときはそれでじゅうぶんだとそれに自分を合わせていると、多すぎず、かといって足りないということはない。なんとかなっていれば、それがジャストだということです。それがほんとうに「お金が自由になる」ということなのではないかと思います。

「人にはできるだけのことをしてあげ、人に物をやりたくてしかたがないという心を持ち、自分だけよいことをしたいというような心を持つな」

誰かに物をやりたくてしかたがない、与えずにおれない。それは何も持っている人の専売特許ではありません。却って持っている人はケチになったりします。「人になにかを与えたくて仕方がない心」を持つのになんの資格もありません。本来誰でも持てるのです。

「おかげはたらいの水じゃ。向こうへやろうとすれば、こちらへ来る。こちらへ取ろうとすれば、向こうへ行くぞ」

以前、この教えの話をして「先生、そんな甘いこと言ってちゃこの社会で生きていけませんよ」と言われたことがあります。けれども、この教えの本義はそこではないんですね。
たらいの中の「水」はそれだけではどこへも行けないし行かないのです。問題はたらいの前にいる人の心です。ほんとうは水が欲しいのにたらいに手をかけ引っ張るから水が逃げる。といっても水が逃げたわけではなく、たらいがこちらに動いただけです。「水が自分のところには無い」というその思いが、たらいをこちらに引こうとするのです。でも「水はいまここにある」と思っていれば、それを与えようとすることができます。与えることができるのは、持ち主だけです。逆に言えば、「与える」ということがあなたが持ち主であることを認めることになるのです。そうすると水はこちらに来ます。それだって別に水が自分で動いてこちらに来たわけではない。水はただずっとそこにあったのです。どこへも行かない。違いは「与えようと思ったか。欲しいと思ったか」その違い。たったそれだけです。自分にはそれがない、持っていない、だから欲しいという不足感から行動すると、手元には空っぽのたらいしか残りません。あげたくてしかたないという心こそ持ち主にふさわしいからそうなる。そういう真理の譬えなのですね。
ですので「~がこうなりますように」と願うのはよい願い方とはいえません。~がこうなっていないというのが前提になってしまうからです。前提というのは大事で、結婚を前提にお付き合いするのと、そうでないのとは全然違うようなものです。
わが本体は天にあってこの世には学びにきている。信心する人は大きな一家が天にできるのです。

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