神様は子供のようなもの
長女の里帰り出産も無事おかげをいただき、初孫も金光へ戻らせていただきました。ちょっぴり寂しいですが、今日から家内と二人きり、仲良く過ごさせていただきたいと思います。
孫は生後1か月半ちょっとですが、実に可愛らしいですね。ずっとみていられる。いくらみてても飽きない。
赤ちゃんの時間というのは、大人の五分の一の感覚だと聞きました。
時間の感覚というのは説明するのが難しいです。楽しい時間はあっという間に過ぎ、辛い時間は長く感じます。
たとえば、私たちにとっての1時間が12分くらいということになる。赤ちゃんにとって私たちの一週間くらいが一日のようなものなんだそうです。
この頃、母親が子供を抱っこしながらスマホをいじっているような光景をみかけます。一時間のお守りは大人にとっては長く感じられるかもしれない。けれども子供にはそれはほんのわずか10分ほどの母親とのふれあう大切な時間だということなんですね。
幼稚園などで、この頃は愛着障害のお子さんが頓に多いと聞きます。それもそういうことが影響しているのかもしれません。
赤ちゃんの時間は大人の5分の1。そう聞いて、金光大神のあのみ教えが思い浮かびました。
「人は十年は長いように思うけれども、神様にとっては、あちらを向いてこちらを向く時間ほどもないからなあ」
私はこれまで、神様の永遠のいのちのなかでは私たちの何十年といういのちなんて、ほんの短いものであっという間のことなんだろうなくらいに思っていました。私たち人間には想像もできないようなことだとばかり思っていたのですけど、こういうことだったんだと気づかされたのですね。
私たちが赤ちゃんを眺めていつまでも飽きない、時間を忘れる。それは愛を注いでいる、愛で満たされている時間なんですね。
だからもし長いなぁと感じるのならば、そこに愛がないんです。
愛につつまれて、可愛いなぁ、ずっと見てても飽きないなぁという、そんな神様の愛に、私たちは見つめられているんだということなんです。ぼーっとしてたらあかんのです。その瞬間瞬間に神様は生きておられるんです。
神様は子供のようなものというと、最初は意外に思います。神様のイメージというと、天におられてお髭をたくわえているような老成した、大人の中の大人という先入観がありますから。
でも近藤藤守師のお伝えにもあります。
「神様に仕える者を神の守りと言いましょうがな。神様は子供のようなもので、その守りを喜ばせれば背中の子供は喜びます。守りの頭をたたいて守りを泣かせれば、背中の子供もともに泣くからのう。守りが喜べば神もともに喜び、守りが泣けば神もともに泣くからのう。神のおぼしめしにかなうよう、氏子もおかげを落とさぬように信心しますのじゃ。」(■ 理1・近藤藤守・78)
問題になる宗教というのは、決まって神の名のもとに氏子を苦しめています。それは言語道断です。けれどもそれよりさらに悪いのは、氏子が神を泣かせることだと私は思う。氏子が結構なおかげをいただいて、それに慢心して教会から足が遠のく。信心がとまる。そのことに対して神様が、その守りが泣いている。泣いているところは見せんでも、やせ我慢してこらえておられる、大半の教会はそういう感じでやっておられるように思います。でも、そうであってはあかんのですね。
信心しているつもりでも、「こんなに信心しているのに、いつになったらおかげを頂けるのだろう」というような心では、赤ちゃんを抱きながらスマホをいじっているママのようなもので、神様とちゃんと向き合えていないんですよね。神様に愛を向けていないのに、愛を返してもらおうとしているのです。
