だれかをゆるせないときに

許さなくていい

普通の人間には100m9秒台では走れません。超一流アスリートですら難しい。それと同じくらい精神活動で高難度なことを挙げるとすれば、私は「許す」ということかと思う。

「許す」それは至高の心、それこそが人間の精神活動の中で最も得難く、そして尊いものです。

そもそも私たちはなぜ、許せなくて苦しむのだろう。それは息と似ている。息ができないと人は苦しい。最悪、死んでしまう。つまり息がしたいのにできないから苦しいのです。許すことも同じで、ほんとうは許したいのです。けれども許せない。だから苦しいのです。あなたの本体は「愛」なのです。

たとえば日常のよくあるこんな場面。満員電車の中で他人の足を踏んでしまう…そんな場面を想像してみましょう。

「痛っ!」「あ、ごめんさない」

誰だって人に恨まれたくありません。はやくその状況から逃れたい。でもいくら謝ったところで、それで踏まれた人の痛みが消えて無くなるわけではありません。痛みで動けない私を置いて、踏んだ人が足早に去って行ったら、どんな気持ちになりますか。逆に、踏んだことをいくら謝っても許してもらえなかったら、どうしますか。「これだけ謝っているのにどうして許さない!」と逆切れしない自信はありますか。

人を許す…そのような常人には出来がたい高難度の技を、他人しかも少なくとも自分の行いによって傷ついた人に求めてよいのだろうか。相手に、踏まれた痛みが残るその足で猛ダッシュを求めるようなことではないのか。

そう気づいたときから、私は誰かに許してほしいと思うことを一切やめました。そして、人を許せない私のことも、それでよいと思うようになりました。

「どうぞ許さないで。許すなんてそんな難しいことを傷ついたあなたに決して求めません」

それが今の私にできる、相手への最も愛のある態度だと思えたからです。

そして、そんな難しいことを手負いの自分に課す必要も一切ないと思うようになりました。

でも勘違いしてほしくないのは「許さないでいてください」というのはなにも「私のことを許さず、ずっと苦しみ続けてください」という意味ではないということ。それは相手の苦しみが長く続くことであり、呪いというものです。

人に許しを求めず「許せないその痛みをやわらげ、苦しみから解放されますように」神に祈ることです。

世の中には私たちのまだ知らない多くの難儀や不幸があります。想像もできないほどの苦しみ、怒り、許せぬ思いを抱えた人がどれほどいることでしょう。

そう思うと私は簡単に「許しなさい」とは言うことはできません。

人間には決して人を許すことなどできないです。できると思うのは、まだ許せないことに幸運にも出会っていないからです。許す…そんなことができるのは、それはきっと神です。だからもし許せたとしたら、それは自分が許したのではなく、神愛によって私が許されているからです。

それでもなお、まだまだ許せない心が起きてくる私です。自分ではできそうにありません。だからこそ神様と共にあるしかないのです。

許すことができなくても、許す心を学ぶことはできるからです。

話で助かる教会

「この神様は、拝んで助かる神様ではない。話を聞いて助かる神様である。わが心でわが身を救い助けよ」(『金光教教典』理2・角南佐之吉・1)

金光教の信仰は、話を聞いて助かる道です。教祖が説かれる話は「ご理解」と呼ばれ、戒律や、教条主義的なものとは一線を画したものです。教会は人々の願い、悩み、苦しみを聴き取って神様に祈り、一人ひとりに神様と人間との関わりを教え、信心で助かる道を諭す「取次」がその活動の中心です。

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