もしも世界が割り算で出来ていたら

【迷いと助かり】

たとえばすべてがお菓子で出来ている「お菓子の国」があったらどんなに楽しいでしょう。私のような甘いもの好きには天国ですね。逆に苦手なのは数字です。あえてここでは「すべてが割り算で出来ている『割り算の国』があったとしたら…」と想像力を働かせてみてください。もう既に「ちょっと何を言っているのか分からない。読むのやめとこ」と思われたかも知れませんが、少しの間だけお付き合いいただければ幸いです。

私たちは小学3年生で割り算を学び始めます。割り算の意味や計算方法、あまりのある割り算を学びます。2年生で九九を習っているので、学習はスムースに進むはずです。でも、なかには私のように算数が苦手で躓く子だっているでしょう。明日、学校で割り算のテストがある。それだけでその子は心配でなりません。A君はまだ割り算の仕組みをよく理解していないがために、答えだけを知ろうとし、4÷2=2、8÷4=2とただ暗記して覚えるだけです。しかしこれでは仮にまだ暗記していない問題「12÷3=」を出されたらもうお手上げです。そうなるとテストの前日になると心配でなりません。いくら覚えても「もし覚えていない問題が出たら…」という不安で夜も眠れません。

一方、割り算を理解したBさんはリラックスして家族と楽しく過ごしています。いつどこでどんな問題を出されても何とかなるとわかっているからです。

つまり、割り算の世界において、Bさんは助かっているということになります。一方、A君は割り算の世界においては助かっていないということになります。

さてここで現実の世界に話を戻すと、私たちの住む世界はお菓子の国でもなければ割り算の国でもありません。この世界は天地の道理が一切を司る世界です。

この道理を理解して生きる人は明日を心配することなく落ち着いていられます。明日どんな問題が起きてこようとも、答えは自らのなかにあることを知っているから安心していられるのです。

  

理解がなければ一時的な助かりしか得られません。安心が持続しません。答えを求めていちいち訪ね歩かねばなりません。

これがいわゆる「迷い」というものです。

後に金光教の創始者となる赤沢文治(川手文治郎)も、最初は迷える氏子でした。家を建てる時、子が生まれる時、日柄方角の神(金神)の祟りを恐れて、いろんな専門家に従いながら事を運ぼうとしますが、なぜか裏目ばかりが出るのです。

金神七殺(七墓築く不幸災難)に見舞われ、ついには自身も42歳のとき大病で瀕死の状況に陥ります。

そのときはじめて、これまでの自分の信仰は神を恐れ避けるばかりで、神の意向に従おうという自分では無かったことを悟るのです。

その改心により金神は人間に罰をあてる悪心邪神などではなく、真に人間を慈しみ育てようとされている愛の神《天地金乃神》として現われ、「この道理を知らず難儀する人間を助けてやってくれ」と、文治に生神金光大神の名を授け、神の願いを託します。それが金光教の始まりです。

【神と人との新たな関係】

「神様は、氏子を救い助けてやろうとこそ思うてござれ、このほかには何もないのじゃから、氏子の身の上にけっして無駄事はなされはせぬぞ。ご信心しておるがよい。みな末のおかげになるぞ」

(『尋求教語録』)

金光教の信仰は、話を聞いて助かる道です。教祖が説かれる話は「ご理解」と呼ばれ、戒律や、教条主義的なものとは一線を画したものです。教会は人々の願い、悩み、苦しみを聴き取って神様に祈り、一人ひとりに神様と人間との関わりを教え、信心で助かる道を諭す「取次」がその活動の中心です。私はお取次を通して「わが心でわが身を救い助ける」神と人との新しい関係が生まれることを願っています。

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