奉斎様式について

伊勢教会の大祭にご参拝くださったある先生からこのような感想を頂いたことがあります。

「伊勢教会のお広前は“ご本部と同じ”と思った。無駄なものが一切ない」
これは私にとってなにより嬉しくありがたいお言葉でした。

といいますのは、この教会はある意味でご本部や他の多くの教会と趣を異にするところがあるからです。


現在、伊勢教会を含みいくつかの教会が所謂「一社まつり」となっています。従来は正面に天地書附を奉掲し天地金乃神・生神金光大神を奉斎した神殿。向かって左側に霊殿。右側にお結界とよばれる神と氏子の取次をする間が設けられています。
伊勢教会では平成19年の開教100年を前にご造営を行うにあたり、かたちのうえで霊殿のない現在の様式をとらせていただいております。
このことについて、これまで特にご質問のない限りご説明することやあまり大っぴらに語る機会がありませんでしたが、この教会建物もやがてあと二年で二十年を迎えますことでもあり、今日までの御用を通してあらたに感じ取らせていただいたことも含めてできるだけ簡潔にご説明方々お話ししたいと思います。


構想段階から、各方面からご意見ご批判をいただくことがありました。
仮に右派左派とよばせていただきますが(あくまで仮です)、右派いわゆる“神徳派”の先生からは「神様と御霊を一緒に奉るとはけしからん。御霊というても助かっていない御霊もある。神様が汚れる」とお叱りを頂戴し、左派これは御霊様をとりわけ大切にしておられる先生からは「霊殿をなくすとはけしからん。御霊が助からぬ」とお叱りをいただくことが間接的直接的にございました。
正直、ある意味ごもっともなご指摘で悩みましたし迷いました。
しかしながら、後になって思うに、右派左派両方から批判があるということは実はありがたいことで、両者からご納得いただくところを模索していくことが実はど真ん中を行く道でもあると言うことです。両方のからの批判に耐えうるだけの中身を備えていくことを意識しながら今日まできております。


教祖様のお広前には当然ながら霊殿というのはなく、教団教会が生成されていくなかでその必要に応じてできてきたものだと理解しております。神道のお社に三社造りと一社造りというのがあります。
主祭神、氏神、崇敬神を三社造りは並列的に一社造りは前後におまつりするものですが、この一社造りのように縦線になったものと教内では概ね理解していただいているように思います。
金光教は取次の宗教です。教祖金光大神が神様の御命をお受けになられ、御結界とよばれる神前右側の座に坐り人の願いを神に、神の願いを人に伝え、天地の道理に基づく「神と人が共に助かり立ち行くありかた」をお現しになり、全教のお広前はその延長にあるものです。
現実の日々の御用の中で、神前では生きていている人のこと、霊殿は御霊様のことをと分けられるものではありません。教会では毎年末に「御礼祈願票」というものを信奉者の皆様に配り、お届けいただいたものを元に日々祈念申しているのですが、必ず新たに生まれるいのちや亡くなられる方があります。そうしてみますと、かつてはそこにお名前があったのに今はもう霊となられた方への祈りが、生神金光大神取次を通して天地金乃神さまに願う中身として、ごく自然に生まれてきたのです。いま生きているご家族たちの幸を祈ることは御霊様の祈りに近づくことであり、亡くなられた故人、御霊さまの幸を祈ることは、現存するご家族の願いに寄り添うことであります。そのように理解した時、このことを場を移ることなく一貫して執り行うことが出来るありかたとして必然でありました。
伊勢教会は信徒中心で教徒に改式しておられるお家は多くないのですが、年に数回、御葬儀や年祭をお仕えすることがあります。葬儀は葬儀会館に出向くことが殆どですが、年祭はほぼ教会でお仕えします。
その都度、ご神殿にご祭具を整え、霊神をお祀りする祭壇を設けています。結構手間がかかります。先述したように教徒が少ないので差し支えありませんが、仮に教徒が多ければ毎月何件もお仕えしなければならなくなったら…と想像したとき、それなら左脇に霊殿を設けようと考えるだろうなと思ったのですね。御道の興隆期においてそういう流れで霊殿ができていったと想像することは難くなく、先人の追体験をしているような気がしました。

実は、ご造営にあたって、心の内で密かに感じていたことがあります。いつか父母が御霊様となられたとき、そのときが、この教会の真の完成なのではないか。あらたな魂が吹きこまれるのではないか。そのような思いがありました。そして実際そうなりました。そのことはまたあらためてお話ししたいと思います。


それともう一点は教義の究明ということです。
教団が成長し展開する中で、教義とりわけ神観というものは磨かれ洗練されていくところとなります。しかしながら、それはともすると、現実の生活から浮遊し宗教を難しいものにしてしまいがちになることは否めません。
対して霊観はその逆で、磨かれ洗練されて行かないと、現代の人々には受け入れられないのです。
しかしながら霊殿が分けられていることでアンタッチャブル化している気がするのです。霊観というのは、わるい言い方をすると言った者勝ちというか、そうなると、本教でなくても、なんでもよいということにもなりうるわけです。
このことが少なからず本教の現状に関与していると思わずにいられないのです。
この奉斎様式が、こういうカタチもありですよ、ということでよいと思います。こうしなさいとか、こうなるべきだとは少しも考えません。正直、そのことがわかればどっちでもよいくらいに思います。

長くなりますので今回はここまでとして、いつか続きとして、その参拝の仕方、とりわけ柏手(かしわで)についての私見をまとめたいと考えております。

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