止まる信心 動き出す信心
今は亡き父から「因分可説、果分不可説」ということばをよく聞きました。
「因(原因)は説くことができるが、果(結果)は説くことができない」という意味です。仏教の入門書にもよくでてくる教えです。
私たちは、どう生きればよいか──その原因となる生き方は語り、学び、実践することができます。しかし、「こう生きれば必ずこういう結果になる」と果を説くことはできません。なぜなら結果は神さま、天地のお働きにおまかせするものであり、人が思い通りに定めることはできないからです。
「信心すれば幸せになれる」と結果を説いてしまうと、思うようなおかげが見えない時に「なぜだ、こんなに信心しているのに」と心が止まってしまいます。これは果を説いたために生じる迷いです。
私はこれを「止まる信心」と呼びたいと思います。
そうではなく「幸せになるには信心が必要だ」と考えてみるとどうでしょうか。
この受けとめ方であれば、「まだ自分の信心が足りないのだ」「もっと心を向け直そう」と、信心が再び動き出します。
これを「動き出す信心」と言えます。
「幸せを生きて、それが信心になる」と受けとめれば、これは因を説くことになります。
日々のいのちを喜ぶこと、あたりまえをありがたいと受けとめること、人と和をつないでいくこと──その一つ一つが「因の生き方」であり、そこにすでに信心の姿が現れています。
因を正しく生きていくところに、自然と果は現れてくる。これこそが「因分可説 果分不可説」であり、「幸せを生きることがそのまま信心になる」ということにつながるのだと思います。
