あなたはanatta
みなさん、今日は「あなた」という言葉について、少しお話をさせていただきたいと思います。
日本語の「あなた」。日常の呼びかけとして、いちばん耳にする二人称ではないでしょうか。
けれども、この「あなた」という言葉の語源をたどってみると、ちょっと意外なことが分かります。
「あなた」はもともと「あな」=「彼方」、つまり「向こうの方」という意味だったそうです。
平安時代の文学にも、場所や方向を指すことばとしてよく用いられていたようです。
それが次第に「あちらの方」=「あの人」という意味に変わり、やがて「あなた」という二人称になった。
つまり「あなた」とは、直訳すれば「彼方におられる存在」なのですね。
というのは、あくまでも国語学的な説明です。
外来語というのはいまに始まったことではありません。
日本語には仏教伝来の影響から、サンスクリット語由来のことばが数多く存在しています。
仏教用語には、
· 般若(はんにゃ) ― prajñā(智慧)
· 波羅蜜(はらみつ/はらみた) ― pāramitā(完成、到彼岸)
· 涅槃(ねはん) ― nirvāṇa(吹き消す=煩悩の火が消える、解脱)
· 菩薩(ぼさつ) ― bodhisattva(覚りを目指す存在)
さらに日常語化したものとしては、
· 三昧(ざんまい) ― samādhi(心の統一、集中状態)
· 檀那(だんな) ― dāna(布施)から転じて「施主」「夫」の意味に
がありますね。
響きがとても似ています。いずれもサンスクリット語で語られた経典を音写したのだと思われます。
そのサンスクリット語で「アナッタ」という言葉があります。
anātman(パーリ語形:anatta)
これは「無我」と訳され、パーリ語では「アナッター」、サンスクリットでは「アナートマン」といいます。パーリ語とはお釈迦様が民衆に向けて説法するときに使っていたような古代の話し言葉だそうです。
「アナッタ」とは、私たちが常に「これが私だ」と思い込んでいる実体的な“我”は、実は存在しない、という教えです。
この「アナッタ」と「あなた」。
響きがとてもよく似ていますね。
もちろん、学問的に直接つながる証拠はありません。私が勝手にそう思っているだけです。
しかし、日本語が仏教文化の厚い土壌の中で育まれてきたことを思うと、あながちあり得ないとも言えない気がします。
試みに「あなた」を「無我なる存在」と読み替えてみましょう。
するとどうでしょう。
私が「あなた」と呼びかけるとき、そこには「向こう側の存在」という距離感があります。
そして同時に、その「あなた」は固定した我を持たない「無我なる存在」でもある。
そう考えると、私とあなたが向かい合うということは、実体のない二つの存在が、ただ関係性の中で響き合っている、ということになります。
「私」と「あなた」が出会うその場こそが、生きた真実の現れである――そう思えてくるのです。
仏教にかぎらず、お道も然り、宗教は「我」に執着しないことを説いています。
「あなた」と「わたし」も、どちらも実体のない存在であり、ただそのつど関わりの中に立ち現れるもの。
だからこそ、互いに尊く、かけがえがない。
「あなた」という日常語の中に、「アナッタ(無我)」の響きを感じ取るとき、私たちは普段の呼びかけの言葉の中に、仏教の深い世界を垣間見ることができるのではないでしょうか。
どうか、皆さんがこれから誰かを「あなた」と呼ぶとき、その人を「無我なる存在として、尊く、かけがえのない相手」として見つめ直すきっかけにしていただければと思います。
そして、あなたも、大切な誰かから「あなた」と呼びかけられるでしょう。そのときは、「無我なるものよ」と語りかけられていることを忘れず、我を出さないように気を付けてください。
以上、「あなた」と「アナッタ」に響き合うお話をさせていただきました。
ご清聴ありがとうございました。
