記憶といのちのつながり
【導入】
私たちの身体は、日々生まれ変わっています。科学的に言えば、一年のうちにほとんどの細胞が入れ替わるといわれます。そう考えると、「去年の自分」と「今の自分」は、物質的にはまったくの別人ともいえるのです。
それでも私たちは、「自分は自分だ」と感じています。なぜでしょうか。
【一、記憶がつなぐ“私”】
私たちが「自分」としての一貫性を保てるのは、記憶があるからです。昨日の出来事、家族との思い出、悲しみや喜び――それらの記憶が、自分という存在を形づくっている。記憶こそが、“いのちの糸”のように過去と今とを結びつけています。
【二、記憶の中に生きる神のはからい】
金光教では、人は天地いっぱいの親神様の御働きの中に生かされていると教えられます。つまり、私たちの“いのち”は個別にあるようでいて、実は天地の営みの中に流れている。
そう思うと、記憶というものも、単なる脳の働きではなく、神様のはからいの現れと見ることができます。大切な人との思い出が心に残るのも、苦しい経験を通して学びを得るのも、すべて親神様が私たちのいのちに刻んでくださっている「生きる教え」なのです。
【三、過去を捉え直すということ】
私たちは時に、「あのときのことさえなければ」と思うことがあります。しかし、信心の目で見れば、そこにも神様の深いみはからいがあったと気づくことがあります。過去を呪うのではなく、そこに神様のみ思いを見出すとき、記憶が“苦しみの証”から“いのちの導き”へと変わります。
【四、いのちのつながりを覚える】
細胞レベルで肉体がまるっと入れ替わっても、私という存在が続いているのは、記憶とともに、天地のいのちの流れに生かされているからです。ご先祖の記憶も、神様の教えも、祈りも――すべてが今の自分に流れ込んでいます。そう思うと、私たちは決して一人ではなく、過去から未来へと連なる“いのちの流れ”そのものなのです。
【結び】
身体は日々新しくなり、記憶も移ろっていきます。しかし、その変化のただ中で、変わらずに私たちを結んでいるのは、神様の御心です。そのことに気づくとき、過去も現在も、そして未来も、すべてが「おかげの流れ」の中にあると感じられます。
今日もまた新しい身体と心をいただいて、生かされていることに感謝し、「記憶をいのちの証」として丁寧に歩ませていただきましょう。
