生き通しのおかげ
(令和8年3月20日春季霊神祭ならびに先代夫人岺子先生3年祭 祭主挨拶より)

教祖様がお元気なころ、ある人がこうお尋ねしました。
「金光様、あなたがお隠れになりましたら、この道はどうなりましょうか」
すると教祖様は、こう仰せられました。
「心配することはない。形を隠すだけである。
肉体があれば、世の人々が難儀するのを見るのがつらい。
体がなくなれば、願う所に行って人々を助けてやる。」
教祖様がお隠れになったあと、この道はどうなるのか。
それは当時の人々にとって、大きな心配だったと思います。
しかし教祖様は、
心配はいらない と仰せられた。
形を隠すだけだ と仰せられたのです。
形がなくなれば、距離もなくなる。
時間もなくなる。
願うところへ行って、人を助けることができるのだ、と。
これは、ただのたとえ話ではないのだろうと思います。
距離と時間というものは、
形があるから生まれます。
形があるから、不自由がある。
会いたい人がいても、すぐには会えない。
行きたいところがあっても、すぐには行けない。
思うようにならないことが、人間にはたくさんあります。
だからこそ人は、焦ったり、腹を立てたり、
時には自分を責めたりもします。
表現の自由という言葉があります。
人間は、もともと自由な存在だからではなく、
むしろ、わが身がわがものにならない、
不自由な存在であるからこそ、
自由が守られなければならないのだろうと思います。
私たちは生きているあいだ、
どうしても形の中にあります。
体があり、場所があり、時間がある。
だからこそ、不自由もあるし、
心が揺れることもあります。
時には、何もかもむなしく思えるような、
虚しさに襲われることもあります。
それは突然やってくるものです。
けれど、そんなときでも
人は踏ん張ることができる。
それはなぜかといえば、
足場があるからではないかと思うのです。
私は教祖様に直接お会いしたことはありません。
けれど、親を通して教祖様を知りました。
親の信心の姿を通して、この道を知りました。
親の信心の姿は、
私にとってこの道の足場だったのだと思います。
道を知ることで、
不自由な身のままで、
自由にしていただける。
そこに助かりがあるのだと、
あらためて思わせていただくのです。
母は生前、よく申しておりました。
「私は死ぬのは怖くない」と。
当時は世の中で、
空から隕石が落ちてきて人類が滅びる、
などという話がよく言われていたころでした。
それでも怖くないのかと聞くと、
母はやはり「怖くない」と言うのです。
私は若かったものですから、
どこか強がりではないかとも思いました。
ところがある時、
母はふとこう申しました。
「生きていることのほうが怖い」
私はその言葉を聞いて、
しばらく返す言葉がありませんでした。
生きているあいだは、
いつ心が変わるか分からない。
信心を落としてしまうかもしれない。
形あるあいだは、
それほど危ういものだという自覚が、
母にはあったのだと思います。
母の形はなくなりました。
けれども、母のことを今でも語ってくださる方があります。
つらいときに優しい言葉をかけてもらった。
疲れていても話を聞いてくれた。
あの顔が忘れられない。
そういう話を聞かせていただくと、
母が今でもお道の御用に
立たせていただいているように感じるのです。
形はなくなっても、
働きはなくならないのだと思います。
今日お祭り申し上げている霊神様方も、
それぞれの人生を生き通し、
私どもに足場を残してくださった方々であります。
しかしここで、
一つ考えさせられることがあります。
教祖様の亡き後を心配する必要は、
ないのかもしれません。
天地の働きは続いていくからです。
けれども、
自分の亡き後はどうでしょうか。
自分の信心は、
自分一代で終わってしまうのか。
それとも、誰かの足場として残るのか。
教祖様は、こう仰せられました。
「此の方の道は一代仏を嫌うぞ」
一代だけで終わる信心ではなく、
次へ渡っていく信心でありたいと思います。
燈燈無尽という言葉があります。
蝋燭の火は、一本では消えてしまいます。
けれど火を次へ移していけば、
光は続いていきます。
大切なのは、
立派なものを残すことではないのかもしれません。
誰かが踏ん張ることのできる
足場を残すこと。
それが、生き通しということではないでしょうか。
安心は、自分の中に閉じていれば広がりません。
けれど天地にお任せした安心は、
自然に広がっていきます。
私一人だけでなく、
家族へ、子どもへ、
また次の人へと渡っていきます。
その安心の中に生きる姿が、
きっと誰かの足場になる。
虚しさに襲われたとき、
踏ん張ることのできる足場になる。
形は尽きても、
働きは尽きない。
そのことをあらためて思わせていただきながら、
ただ今の春季霊神祭を
ありがたく仕えさせていただきたいと思います。
