人に許しを求めない
人はいつどんなことで加害者になるか被害者になるかわからない。
自分の過ちを後でいくら反省していますとかごめんさいと言ったところで、それと被害者側の痛手にはなんの関係もない。
以前、ある人との間にトラブルをかかえたときに学んだことがある。
他人から悪く思われるというのは、誰にとってもしんどいものである。
たとえば電車の中で他人の足を踏んでしまうとする。「痛っ!」「あ、ごめんさい」と言ってもそれで相手の痛みが消えるわけではない。謝ってはいるが、自分がはやくその罪から逃れたい許されたいという心が出てくる。相手のダメージが大きければ大きいほどその落差は大きくなる。被害者側からすれば、相手が痛みに苦しむ自分を置いてわが身だけ楽になろう逃れようとしているように映るから相手がさらに憎く見える。それなのに加害者であるにも関わらずなかなか許してもらえないことに逆切れして「こんなに謝っているのになぜ許さないんだ!」と怒り出す人までいる。
「許す」という心は至高の心、人間の精神活動の中で、最も得難く難しいものです。
そのような常人では出来がたい高難度の技を、他人しかも少なくとも自分の行いによって傷ついている人に対して求めるなどということは、あまりにも残酷なことです。仕打ちの追い打ちともいえる。
それゆえ、相手をほんとうに慮るのであれば、許しは乞うてはならない。相手に許しの精神など決して求めるべきではない。
そう気づいた時、私は許してほしいと思うのをやめた。そして「どうか許さないでください」そう思うことが自分のしたことを真っすぐ受けとめることだと思った。「どうぞ許さないで、許すなどとそんな難しいことを私はあなたに決して求めません」それが今の私にできる最も愛ある態度に思えたからです。
だからといってこれは「私をずっと呪って苦しみ続けろ」という意味ではないのです。
「痛みに苦しむあなたにそのような難しいことを求めたりしません」というのが、いまの私が負うべき最も愛ある態度だと思う、ただそれだけです。
世の中には、想像も及ばぬ苦しみ、怒り、許せぬ思いを抱えた人がどれほどいることでしょう。
そう思うと簡単に「許しなさい」などと私は言えない。だから「許さなくていいんだよ」と言う。
人間は決して人を許すことはできません。許すことができるとすれば、それは神だけでしょう。だからもし誰かを許せたのだとしたら、それは自分の心が許したのではなく、神愛によって許されたのです。
真の信仰とは、その神愛をわが心にあらわすことです。
無論、私もできそうにありません。だから神様と共にあろうとすることしかないのです。