らしさ

亡き父を想う時「世を忍ぶ仮の姿」ということばを思い出す。青年期、この世の生き辛さを訴える私に父は幾度か独り言を言うようにそうつぶやくことがあった。「ひよっとして自分のことを言っているのかな」と訝ることもあったが、父と交わした会話の中でなぜかずっと気になっている言葉の一つだ。
検索すると『笑える国語辞典』というのがあった。それによると、


「世を忍ぶ仮の姿とは、本来の姿を隠して社会生活をするためにコスプレした姿という意味。早い話が、『スーパーマン』におけるクラーク・j・ケントであり、『遠山の金さん』の江戸町奉行・遠山金四郎に対する町場の遊び人・金さんである」とある。

なるほどわかりやすい。
ある意味、人は誰でも人生を演じている。たまに行くファストフードやファストファッションの店員さんたちが独特の発声法で「いらっしゃいませ~」「どうぞご覧くださいませ~」と声掛けをしているのを何気なく聞いていると、まるでみんなそういう人たちのように見えてしまうが、無論、職場を離れればそんなことはなく、地声で喋っているふつうの人間なのだ。訓練を受け、お店の雰囲気に合うように、そろいのユニフォームに身を包むだけでなく、内面にも仮面をつけているだけなのだ。
そうやって自分や家族の生活のために仮の姿をまとう。それが働くということ、社会生活を営むということと言えよう。
ただ、こうも言えるのではないか。
『スーパーマン』におけるクラーク・j・ケントだけでなく、クラーク・j・ケントにおけるスーパーマンも、そして『遠山の金さん』の江戸町奉行・遠山金四郎における町場の遊び人・金さんだけでなく、町場の遊び人・金さんにおける江戸町奉行・遠山金四郎も、世を忍ぶ仮の姿なのだと。

就職一年目の若者から相談を受けた。業務の上でそのように振舞わなければならないと頭では解っていても、いざ現場に出ると緊張してしまう。どうすればよいかと。
努力や稽古ということばが頭に浮かんだが、実際に口から出た言葉は違った。

「演じたらええんや」

無理に自分を変えることはない。演じなさい。但し自分を偽るのではなく役柄へのあなたの誠実さとして。


話題のchatGPTに英訳してもらった。
“Don’t force yourself to change. Play a role, but do so with sincerity towards the character rather than pretending to be someone you’re not.”

自分の口から出た言葉ではあるけれど、それを自分の耳で聞きながら、父の言っていた「世を忍ぶ仮の姿」の意味が腑に落ちた。

と同時に、金光大神の教えにある
「親は親らしゅう、子は子らしゅう、何事もらしゅうせよ」
「人間は人間らしくすればよい。何も求めて不思議なことをしなくてもよい」
の意味が私の中で大きく変わったような気がした。

らしくする、というのは、偽りの自分をいやいや演じるようなことではない。
与えられた役柄に誠意をもって演じることなのだ。

世間を欺き偽って演じていたら、やがて自分が何者か分からなくなってしまう。
役柄に奉仕する、そのお役というものにあらん限りの誠実さをもって誠心誠意向き合う。その誠実さこそがあなたの本質であり求めるべき唯一のものである。

クラーク・j・ケントも縁あってこの世界でスーパーマンを演じる身となったからには、誠心誠意をもってスーパーマン足り得ようとの努力なしにスーパーマンは存在しない。
町場の金さんもそれが等身大のほんとうの自分だと感じていたのかもしれない。生まれやなりゆきで町奉行を務める立場になってしまったからには、人の上に立つものとして精一杯誠実に生きたい、そう願ったどちらも架空ではあるが、生身の人間だったのではないか。
父が言いたかったのはたぶんそういうことだったのかもしれないという思いとともに、春の霊神祭を誠意をもってお仕えしたい。



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