本質を知らぬか隠すか
『天地は語る』326
みな、病気の名前や病気のもとは不思議によく知っているが、おかげの受けられるもとを知らない。病気のもとよりは、おかげのもとをたずねてみよ。
「不思議によく知っているが…」これは「皆さん、よくご存じですね」と感心しておられるわけではないのは一目瞭然ですね。教祖さまの御理解には時々、皮肉というかIronyというか、そういうものを感じさせるところがあります。
「皮肉」は「アイロニー」は同じように思っていましたが、よく調べてみると興味深い違いがありました。
皮肉の語源は「皮肉骨髄」。禅宗の始祖菩提達磨が四人の弟子たちを“皮”“肉”“骨”“髄”と分けて評したとされ、骨や髄は「真骨頂」とか「真髄」というように要所要点を指すのに対し、皮や肉は表層的なものであることから、「本質を理解していない」ことを揶揄するような意味ですが、アイロニーは「本質」を「表面的な立ち居振る舞いによって隠す」ことで表現する、「無知を演じる」「装われた無知」ということになります。
皮肉にはどこか冷たい意地悪な感じがありますが、アイロニーにはユーモアというか暖かな印象を受けます。
そういう意味で教祖さまのこの教えはアイロニーであって、皮肉ではないと理解します。私もお結界での言葉が皮肉ではなくアイロニーになるように気を付けたいものです。
「病気の元は不思議によく知っている」これはよく感じます。病院で検査結果を聞いてきて「ここの数値が良くないんです」とか「よい数値が出ていました」とお届けにこられる方は少なくないのですが、病理学的な数値というのは、私は医者の言語だと思っています。お医者さんはよく勉強してこられたから、数値を見ればその患者がどういう状態かよくわかるわけです。音楽家であれば国や言語を越えて五線譜をみたらその曲がわかるのと同じです。経営者なら貸借対照表をみればその会社の経営状態がわかるようなものです。
しかしながら私たちは医学的なことは素人ですから、その医者の言語を聞きかじって言ってみても、ほんとのところよくわかりませんよね。
数値がこの範囲内ならよいが以上でも以下でも異常であるとされると誰でも不安になりますが、その良好とされる数値であっても、その数値と数値のあいだになにか堅牢な壁が立っているわけでもなんでもありません。ですので、そこを土台にしているかぎり、少しでもその範囲を超えるとたちまち不安になってしまうのです。
人間は天地の御いのちに生かされて生きている、そのことを素直に認める覚悟がたりないところから私たちは不安に陥るのです。そのお働きに素直に従う、「諦観」ということばがありますね。諦(あきら)めるという字をつかいますが、諦めるのは弱々しいことでも否定的なことでもなく「あきらかにする」ことです。
生かされて生きている、そのことを認めると今なすべきことが解り、道が開けてくるのです。