自分の下足番は自分

旧広前の頃は大きなお祭りの日には下足番の御用がありました。どこかの先生が「下足当番の方の御用をみればその教会のことがわかる」というようなことを申されていたようですが、いまの教会建物は土足で参れますので係としてはなくなりましたが、実はあるんだという話をします。

三十年ほど前に学院に入ったころ、はじめて黒衣と下駄の生活を体験しました。最初はなれないから足が痛くなったりもしましたが、今思えば、何の徳もない若造がいっちょまえに修行生らしくさせてもらい、もじどおり「下駄」を履かせてもらっていただけだったのだなぁと思うのです。

神様というのは形もなく目に見えませんから、どのくらいすごいものかということはなかなか分かりません。けれども、ご信心させてもらっております者ならば、教会へ来てお広前にあがるときは、先ほども申しましたようにここは下駄箱もありませんが、自分がどのくらいの下駄を履かせてもらっているか、それだけはぜったい解らせてもらわねばならないと思うのです。

亡き母の思い出になりますが、ずっと以前、私もまだ二十代の頃だったと思いますが、熱心で御用もされるけどちょっとやんちゃというか、どもならんご信者さんがおられまして、私は憤慨し、「あんな人に御用してもらわんでもええやん」ということを言いましたら、そのとき母がこう言いました。「そうね、でもね、あの方は難儀な方だけど、御用があるから、それでこの教会に参ることができるのよ。でももし御用をはずされたら、来る目的がなくなって参らないようになる。そうしたら神様のおかげを受けらぬようになるから、だからいいの」と、そんなふうなことを聞かされまして、「ふーん、そんなものか」と思いました。そのときから、私にとって御用というのはいわば神様に下駄を履かしてもらっているようなものという認識ができたようです。

しかしながら下駄を履かせてもらった当人は、自分も含めて、それが下駄だとは思わないようで、それがわが身の背丈だと思うのですね。下駄を履いたぶん頭が高くなるということが出てくるのです。それで逆にこちらがいろいろなことを言われるようになってきます。でもそのときにですね、こちらも下駄を履いたままだと、下駄の張り合いになってしまいます。

ある教会で実際にあったことだそうですが、大きなお祭りのとき、他の教会のよく知られた信者さんが参ってこられたそうです。その方はあちこちで活躍されお役に立っておられます。お結界ではお行儀よく挨拶されるのですが、後ろに下がられてから、親しい信心仲間の顔を探すけどいない、どうも二階にいるようだと思ったところに、ひとりの御婦人が廊下からお広前に入ってきたのですね。そしたら大きな声で「おお、ちょっと、誰々呼んできてや」と呼びつけたはいいが、じつはその女性はそのご婦人はそこの教会の奥様だったのですね。奥様は素直に「はいはい」と二階へ呼びに行ったのですが、降りて来たところで奥様先生だと紹介されるとなんともバツが悪そうだったという、まぁ笑い話なんですが、私もよく知っている方ですが、ここではちょっとだけ悪い役をやってもらっているだけですが、そういうちょっとした弛みというのも神さまは見逃してはくれないですね。
「実るほど首を垂れる稲穂かな」と申しますようにね、なにも教会の奥様先生でなくても誰であっても「すみません。私は何々の誰々と申しますが、Aさん来ておられたら誰々が来ていると伝えていただけませんか」という礼儀もなくては、言葉は悪いが御用腐れだと私は思うんです。他所事ではなく、共々に気を付けたいと思います。

神信心する者は、いきなり神さまの背丈は分からなくても、自分がどれだけの下駄を履かせてもらっているか、自分の下駄の高さ厚みくらいは知らねばといかんと思います。お広前にあがったら、自分の下駄を脱いで、それがどのくらいのものかよ~く見させてもらうことです。日頃どれだけのおかげを受けておるか、御立場をつくっていただいておるか、その下駄の高さ厚みと何もないじぶんとの「落差」を感じたら、そのぶんが神様なんです。神様は目に見えんけど、自分の下駄の高さはみえるはずです。でも下駄を履かせてもらっていることを忘れ、それが自分の背丈だと勘違いしていたら、いつ下駄の歯がぽきっと折れるか分かりません。

信行のひとつに裸足の行というのもありますが、それだって気をつけないと「俺はこんな修行もやった」と余計に下駄を高くしてしまいかねない。裸足になるには下駄を脱ぐことですから、神様から「ちょっと下駄を降りてみや」ということなのかなと、その下駄を後ろから見て、その厚みを悟ったら、その下駄を自分で抱えて屈んで歩くというのが、それがほんとの裸足の行なんじゃないでしょうか。いうなれば自分の下足番は自分だということです。神様から履かせてもらった下駄、数々のおかげのなかで、ついいろんな愚痴や不満、慢心、驕りがでてしまうのが人間という者の弱さですが、靴をはいたままお参りができますけど、そういう意味で下駄を脱いで裸足になって、あらためて自分がどれほどの下駄を履かしてもらっているのか、あのときおかげを頂いてなかったらどうなっていたか、その落差、下駄の厚みくらいは知らないと、もちろん目に見えない部分の方がもっと大きいのですが、信心が信心になってこない。一人ひとりがここでは自分の下足番となり、外へ出たら、この有難い下駄を多くの方に履いてもらうような信心の実践に取り組ませていただかなければ、ほんとうにいつポキッと下駄の歯を折られるかわかりませんので、油断のないようにおかげを蒙らせていただきましょう。

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