臆病という病
金光教祖は「臆病」についてつぎのような教えを残している。
子供を叱り叱り育てるな。叱り叱り育てると、大きくなって道楽者になる。また、恐れさせ恐れさせ育てると臆病になる。(『天地は語る』321)
疑うならば、鬼門の方角へ家を建ててみよ。神が叱らないと言ったら、叱りはしない。臆病を去れ。おかげをやる。(『天地は語る』342)
臆病とは読んで字の如く「病」である。
病であるならば治るものであろうし、直さねばならないものでもあるように思う。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という台詞が中島敦の『山月記』に出てくる。
時は唐代の中国。李徴という人がいた。博学の自信家で高級官僚となったが、周囲を見下して職を辞し、詩作で身を立てようとする。しかし芽が出ず生活のために地方官僚となるが、上司となったのは見下していたかつての同輩であった。そのことで李徴の自尊心は打ち砕かれ、ついには山中へと消える。
ある日、李徴の唯一の友であった袁傪が月明かりの山中で一匹の虎に出くわす。その虎が李徴であると気づいた袁傪は、どうして虎になってしまったのかと李徴に尋ねた。
自分は詩によって名を成そうと思いながら、才能のなさを自覚することを恐れ、師に就くことも、詩友と交り切磋琢磨する努力をしなかった。
また、自分には才能があると信じたいために他人を見下して交わることを潔しとしなかった。この臆病な自尊心と、尊大な羞恥心が、心の中で虎となり、ついには外見まで虎となってしまったのだ。と心情を吐露する李徴。
「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」
臆病さと尊大さ、自尊心と羞恥心の本質を斯くまで見事に言い当てたことばを他に知らない。
告白するならば、それは若き日の私の姿でもあった。
『山月記』は高校で習ったらしいが記憶にない。やはり勉強は大切だと後悔する。
世の中には、人の心に棲む虎が、突如として牙をむいたかのような、凄惨な事件が起きることがある。
それもまた「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の為せるものであるならば、人間は「勇気ある自尊心と謙虚な羞恥心」で己の臆病という病を癒ねばならない。