たからもの
━ 亡母 髙阪岺子先生に捧ぐ ━
亡母 三代教会長夫人 在籍教師 髙阪岺子の五十日祭ならびに合祀祭を仕えさせていただくにあたり、ご霊前に5冊のノートをお供えさせていただきました。
ちょうど一年前、父の葬儀のときご紹介した「備忘録」と同型の小さいノートです。
昨年そのノートをもとに「おくりもの」と題してご本部の布教功労者報徳祭で不肖私が教話の御用にお使いいただきましたが、今日は「たからもの」というお話になろうかと思います。
全く同型のノートですが、その使い道は父と母とでは全く別物です。
父のノートにはその時々に感じた「死生観」が綴られていましたが、母のノートに記されてあるのはほぼ数字です。表紙には「造営基金」、最初のページには御造営寄金指定献金口座 平成8年(1996)3月10日起と書かれてあります。全5冊を数えます。このノートは表からめくると受渡し簿、さかさまにして裏側から開くと奉献者名簿という二部仕立てになっています。いつ、どなたからどういうおそなえがあったか、皆様方のおなまえはもちろん、すでにお国替えされた懐かしいお名前、そして今日のような祭典や集会ではおめにかからない方々、基金箱のお賽銭にいたるまで、すべてが記録されています。
受渡し簿は、当時は通帳を御造営委員会(杉山総代)にお預けしていましたので、受け取りの日付と金額の確認がなされております。
五冊の中で一冊だけ分厚いのがあります。4冊目ですが、これはちょうど着工時期にあたり、各種の領収証類がホチキス止めされ四倍くらいの厚みになっています。母は結婚し伊勢に来るまで東京で銀行員をしておりましたから、こういうことは得意でした。
いつだったか記憶は定かではないのですが、ある日、教務室で母がこのノートを手に取ってそれは嬉しそうに言いました。
「これはね、わたしの宝物なんさ」
あのときのにこやかな笑みがいまも瞼に焼き付いています。
母の告別式で、信徒総代を代表して杉山氏のご挨拶に御造営の時の思い出をお話しされました。とりわけ、借り入れの返済で支払いに足りないところで度々お繰り合わせをいただいた旨のところで、私も感極まりました。この4冊目のノートには、銀行からの返済予定表も閉じられています。竣工成った平成18年8月に3,000万円を借り入れ、以後半年ごとに約250万円、一年に500万円を6年かけて返済するというものです。いまの教会の実情からみればとんでもない計画であると思います。
とりわけ私にとってもっとも大きかったのは、平成20年6月末の四回目の返済でした。
お広前で父と母がなにやら難しい顔をしていました。私が「どうかしたのですか?」と尋ねますと、「実は期日の迫ったの4回目の返済額にあと15万ほど足りない」というのですね。そのとき私は、副教会長という肩書にありながらまことにお恥ずかしいことですが、まったく気楽なものでした。
私も在籍教師給与という名目で月々のお手当てというものをお下がりから頂いておりますが、それがほぼそのくらいの額なのです。これが実に絶妙といいますか、もしそれが数十万とか何百万単位の話であったなら、ちょっと許容範囲を超えるというか、私の手に負えない話で怖気づいてしまったのでしょうが、なんとかなりそうな微妙な額なのです。それで私はこう言いました。「それなら、今月の私のお手当てを後回しにしていいから、それで払えばいいじゃないですか?」と。
私の提案に父母は喜ぶどころか困惑した表情で何を言うでもなく、そういうことじゃないのだけどなぁとでも言うような表情で、それ以上言葉を返しませんでした。
それから数日が経ちました。私がお結界に座らせてもらっていると、ある方がお参りされ、小銭のはいった大きな瓶をご造営にとお供えくださったのです。瓶の中身を母と一緒に数えると、それがまあ、ぴったりというか、足りないということもなく、さりとて余るほどはなく、まさにそういう金額だったのです。それでお支払いは無事させていただくことが出来たのです。
こういう話はこれまで何度か聞いたことはありましたが、こんなことがほんとうにあるのだと、神様のおはたらきを目の当たりにしたような思いでした。
ところがです。数日後、母から「健太郎さん、今月分のお手当てはちょっと待ってもらえないか」といわれました。私はお手当てというのは当然頂けるものと思っていて、だからそこから貸してあげるなどと言ったわけですが、現実は教会のおさがりも余裕があるわけでなく、必要経費すらままならない状況だったということです。いざ出るはずのものが出ないということになると、私は青ざめ、狼狽えました。たちまちのうちに子供たちの給食費や、習い事の支払い、年金、諸々の引き落としがくるのに、払えるような蓄えなどないのですから。
ぼんくらな私はようやく父母の複雑な表情の意味を悟りました。「あぁ、私はなんと浅はかだったのか。教会ご造営のお金は、神様がきっちり支払ってくださった。私は神様からお下がりをいただく身でありながら、それが月給のように当たり前にいただけると思い、そこから貸してあげますなどと、とんでもない勘違いをしていたのだと、自分を恥ずかしく思いました。アテにするものを完全に間違えていたのです。口では「神様にすがって」といいながら実は全然縋りきれていない。それがわが身の本性でした。まったくもって呑気なものです。それに対して父母の心労、背負っていたものの大きさ、重さは、いまの私にも察するに余りあるものです。いくらお詫びしても足りない無礼をしでかしたものだと思いました。
ご承知のように、このお道には寄進勧化はなく、義務や強制もありません。そういうなかでおかげを受けた方々が神様へのお礼にとお供えができるということは、母にとってわがこと以上のよろこびだったのでしょう。その意味で、このノートは母にとっては出納帳というより「形を変えたご祈念帳」だったということです。いうなれば数字化された祈りのノートなのです。母はお広前でのお取次ぎの他は、教話や文章で書いたものもありませんが、このお帳面をとおして神様と対話し、御礼、お願い申していたのでしょう。そうして完成したのが現在の会堂です。このノートはその証です。このノートがたからものであるということは、その結晶であるこの建物はもちろんのこと、このことにたずさわったすべてがたからものだということです。私はこの「たからもの」のなかで寝起きし、たからものである皆さんと共に、いまも母と共にご用をさせてもらっているのだと思っております。
この4回目の返済で得た教訓をもとに、私自身の財に対する向き合い方が変わりました。それは、銀行に返すのをやめにしたのです。そうは言っても借金を踏み倒すわけではありません。借金というけどもとはお支払いの都合上、銀行が提供する金融サービスを利用したということであって、本質は、銀行に返済するためにお供えしているのではなく、神様によろこびの財のお供えをしているのです。人間は勝手なもので、借りるときには一円でも多く貸してほしい。でも返すとなると、一円でも少なく、一日でも先延ばしにしたいという思いが出てきます。しかし、神様へのお供えということであるなら、これは一円でも多くお供えさせていただきたいし、一日でも早くさせていただきたい、と願えることに気がついたのです。そのようにお願いの仕方を変え、そこからはあっという間だったような気がします。結果、一年半ほど前倒しして完済のおかげをいただきました。いまとなってはこうしてノートを安心して見返せますが、当時の状況で自分が責任を負っていたらと考えると、手が震えます。
実を言うと、母の出棺に際し、たからものだったこのノートを棺にいれてあげるべきかと、一瞬迷ったのですが、灰にしてしまうのではなく、この母の数時に現されたご祈念帳、この「たからもの」に込められたものをしっかりと受け継ぎ次につなげていくことが私の責任であり、大切にして折にふれ読み返していくべきものだと思い、はじめて皆様にご紹介したようなわけであります。