祈りのタイムトラベラー
今年も皆様にご提出いただいた「家族現況御礼祈願届」をもとに、日々ご祈念に務めさせて頂きます。
一軒一軒、お一人おひとりのことを日々ご祈念させていただくなかで、また新たに気が付いたことがありました。
例えばAさんご家族とします。
このなかに私が実際にお会いした方はAさん夫婦を除けば娘のBさんだけです。子供の頃、おばあさんに連れられて、お参りされていました。勧学祭のとき、旧広前で元気に走り回っておられた姿をいまでも思い出します。
祈願届に書かれてあるBさんのご主人、お子様たちとは、まだ実際にお会いしたことはありません。
そういう方が祈願届のなかには実際かなりあるのです。
そのことが釈然とせず若い頃はご祈念していても、どこか身が入らないこともありました。
ところがあるとき考え方に変化が起きました。
みなさんはタイムトラベラーとか未来人ということばを聞いたことがあるでしょうか。
SF小説や映画の題材として昔も今もいつの時代も廃れることなく、いろいろな作品が誕生しています。いまはやりの都市伝説系でもよく話題に上るものです。
それだけわたしたちはタイムトラベル、時間旅行、ロマンを感じているテーマだということです。
その背後には《私たちはどこからきて何処へ行くのか》という問い、私はなぜいまこの時代に生きているのかという思いを胸に宿しているからではないでしょうか。
もしタイムマシンというものが実現可能だとしたら、みなさんならいつの時代、何処へ行き、誰とあいたいですか?
これ、非常に重要なところなのです。
鉄道が敷かれ、新幹線が走り、飛行機ができ、空を飛べるようになって、駅なり空港なり目的地までのチケットを手にして乗る訳ですが、タイムマシンなら、目的地は「時代」しかないと思います。しかし時代と言ってもあまりに漠然として、教科書で習ったくらい。それがほんとうにあったのかどうすら分からない時代や文化、都市もあったりするわけです。ですので、もし可能性があるとすれば、私は「縁」を辿っていくのが最も確実で最適解なのじゃないかと思うのです。したがって、行ける範囲、限界は限らてくると思います。あるいはそこでつながった縁をつうじて、乗り継ぎをして、また違う時代に行くことならできるのかもしれません。
話を戻しましょう。
いま私がBさんとその家族のことをご祈念しているこの瞬間は、かつてその中に記されてあった、Bさんの亡き御祖母さまから送られてきたもののように感じはじめていました。そのご縁なしには、金光様の祈りが、いまここにBさんのご家族に辿り着くことはなかったはずだからです。人の助かりを願いなさいと言われても、人というだけでは漠然としすぎています。その場合、やはり誰かの縁を辿っていくしか、人を祈る道もないのだと思わされたのです。
現教主金光様が、今年のラジオ「金光教の時間」の年頭放送「命のリレー」のなかで直接お話しくだされたなかに、
「『ご恩を知り、ご恩に報いる』ということが、信心において非常に大切なところだと思わせていただきます。親様の深い祈りがあって今日の私があるとうことです」
とみ教えくださっております。
恩を知るとは、すなわち縁によって生まれ、今日あるわが命に目覚めていくことではないでしょうか。私という存在があるのは、父母が生まれ、出会えたことも、両方の祖父母のご縁も、みな金光大神という方がなければありえなかったんですね。
昨年から祈願届を一新し、続柄の欄ができたことで一層そのことを確かに感じるようになりました。
私達のだれもが独りきりではじめてこの世に存在したのではない。誰もが運命の縦糸と横糸が交差したところに、大切に結び合わされ、精巧に紡ぎあわされ、ご縁のなかで生きている。
世の中は百年に一度とかいわれる大転換期に入ったといわれますが、教祖様につながるご縁という確かな柱を軸にして、縁ある方々の仕合わせを願い、前途明るく賑やかな展望が開けるおかげを蒙って参りましょう。