「ちょっとそこまで」
佐藤照の伝え■ 理2・佐藤照・1
はじめて参拝した時、金光様は、
「神には遠い近いはないから、一心に信心すれば、どこにいてもおかげが受けられる。知らず知らずにご地内にご無礼ができるから、神様にお断りを申すがよい。道で小用でもしなければならない時は、お断りしてするようにせよ」
とみ教えくださった。その時、また、
「病気にでもなると、だれでも人には話すが神様に申しあげるということはしない。人には言わなくても神様に申しあげてお願いすれば、おかげが受けられる。拝み方は知らなくても、忘れないよう一心にすがればおかげをくださる」
とみ教えくださった。
「ちょっとそこまで コンコウキョウ」
教会参拝の道中、ばったり知った人に会って「あら、どちらへ」と訊かれて、教会と言えずに「あっ、いえ、ちょっとそこまで…」と、良くも悪くも控えめな本教信奉者の特徴を揶揄して誰かが言い始めたことばだと思います。
このことを私はずっとネガティブな意味だけに捉えていたんですけどね、でも、最近、そうでない観方もあるなと気づいたことがあります。
このお道は「お取次ぎ」の宗教だということです。
だから、なにか問題があって、お取次ぎを頂きに、神様に聞いてもらうために行くのですが、途中にそういうことがあると、つい「えぇ、それがこんなことで大変なんさ」と世間話になり、そのうち「立ち話もなんやからちょっとそこいらでお茶でもいこか」となり、時間がたつのも忘れてお参りわすれてしまった…ということではいけないわけなんですよね。
これは何も外のことばかりとは言えません。
教会に参って来ても、知り合いの信者さんがいたりすると、たとえばですが、いつもご夫婦ふたりで参っているのに、その日は奥さん一人で参られていたので「あれ?どうしたん」と聞かれたりして、先日もそんな場面があったのですが、その方は弁えておられて「あっ、ちょっとね」とか上手にかわしてお結界に来られたのです。その方のご主人は実は手術のため入院しておられて、その御届だったのですが、こういう方は必ずおかげを頂いておられます。でもそれがもし「いや、実はね…」とペラペラお喋りになってしまったら、それは神様に聞いてもらうために、お広前に来たことにならなくなってしまいますよね?
そういう意味で「ちょっとそこまで」というの有りなんです。
ただ、こういう場合は違います。「おかげをいただいてありがたい、わたしだけこんなにおかげいただいていいんやろか」というときに、もし近くに難儀でかわいそうになぁと思う人がいたなら「ちょっとそこまで…」ではなく、ぜひ「ちょっとそこ…の金光さんまで、私と一緒に行ってみませんか?きっとおかげをいただけますよ」と言っていただくのも有りなんですよ。それが「実になる信者」神様が放っておかない人にならしていただくことですね。神様はいつもその人がほんとうに、人にではなく神様に心が向いているかどうかをお試しになっておられると思います。「人には言うが」のほうになってしまうと、神様に放っておかれることになります。
「ちょっとそこまで」「ちょっとそこの金光さんまで」どちらかというなら後者になれたら幸せですね。