神様に合わせればよい

拙ブログ「柏手考」でもふれたように、柏手(かしわで)四拍手を大切に打たせていただくようになった。

一礼、四拍手、一礼…厳粛な神様と私の時間

今日の朝祈念のとき、私は特に意識していなかったが、柏手を打つ間隔が以前よりゆったりと長くなっているのだと気づかされた。ご信徒の柏手がまったく合わなかったのだ。

〝変化〟はそこではなく、そのときの私の心境だった。

以前の私だったら、「あぁ、バラバラだ。ちゃんと私に合わせれば良いのに」と不満に思っていたであろう。

ところが今日は違った。そろわないことが何でもないことに思えた。むしろそのズレすら心地よかった。

そのとき私は「あっ」と思った。

金光様(現教主金光浩道様)のことだ。

本部祭典にお参りされている方ならお気づきであろうが、金光様と参拝者の柏手が合わない。殿上の祭員方は近くにいるので合わせられているが、広い祭場では死角も多いのでタイミングが読みにくいと言うこともある。大画面モニターがあったらなぁと何度も思った。

大事な大祭の大切な場面で「なんとなく締まらないなぁ…」そんな思いを抱くこともあった。

ご承知のように現教主は以前プロのミュージシャンであられたから、耳は人並みはずれてよい筈で、人の音を聴いて合わせる心構えもお持ちのはずだ。普通の人間なら、多勢に無勢というか、何千人の人が大きな音で柏手を打っているのだから、ついつられるであろうし、そちらに引っ張られてしまいそうな気がする。

ご祭主をされるようになって以来、ずっとこのズレは変わらない。「案外、頑固な方なのかな」と疑ったこともある。不遜ながらいちど、お結界でお尋ねしてみようかと思ったこともあった。

そんなモヤモヤが、一度に晴れた今日の朝ご祈念だった。

「あぁ、そうだったのか。金光様は人にではなく神様に心を向け、大切に、音を奏でるように、心を込めて柏手を打っておられるのだ。そして、合わなくても全然気になどなさっておられない。むしろそれも美しい。そうお感じになっておられるに違いないのだ」と。

決して「私に合わせなさい」などとはお思いになっておられないだろう。みなさんどうぞ神様に心を向けてとの御心だけであろう。

これまでは金光様のお姿をみて柏手を合わせようとしていたが、それは違った。その必要はない。金光様の頂いておられる神様に心を向けて打てば、目を瞑っても合うような気がした。というか別に整然とそろわなくてもよいのだ。ただ各々が人ではなく神様に心を向けて、神様と出会う心で柏手を打つのだ。

なんだか今日はとても有難い。

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