来る者は追わず去る者は拒まず
ある先生から最近こんな質問を受けた。
「金光教の良さ・特徴とは何か」「金光教が世の中に訴えることができる価値とは何か」
ずっと考え続けているけれど、これといった答えはまだ見つかっていない。
しかし最近こんなことに気が付いた。
「来るものは拒まず去る者は追わず」という格言があるが、お道の場合はむしろ「来るものは追わず去る者は拒まず」なのではないかなぁと。
以前、熱心な母娘がいた。母親は実家の祖父母からの信心を嫁いでからも受け継ぎ、二人の娘さんをつれて月に一度は参って来ていて、なかなかに筋がよく、教会だよりに寄稿してもらったこともあるし、いずれは女性信徒の中核的な存在になってくれることだろうと思っていた。
長女は高校で吹奏楽部に入り、めきめき上達していった。その彼女が卒業を迎えるころからぱたりと母娘が参拝しなくなった。
しばらくして、彼女はよき指導者にも恵まれ、念願の音楽家として歩み出すことになったことを風の便りで知った。その頃一通の手紙をもらった。どうやら他の宗教と縁ができたらしい。
母親は当時から教会からさほど遠くないある店でパートで働いていて、現在も続いている。
ときどき買い物にいくとみかけるのだが、敢えて声をかけることはしなかった。もう縁がきれたのだ。仕方ないと思いつつも、人と人とを結ぶ宗教がときに人と人を分かつことを悲しく思った。
10年以上が経ち、久しぶりにその店に行くと、並んだ列がちょうど彼女の担当するレジだった。
お勘定がすんだ後、すこし躊躇ったが「〇〇ちゃん頑張っているね!」と声をかけてみた。返事をしてくれるかどうか怖かったが、顔を上げ私と気づくと意外にもパッと明るい表情に変わり、満面の笑みと大きな声で「ありがとうございます!」と返事をしてくれた。
とても嬉しかった。
もしかしたら彼女も突然教会を去って行ったことが心のどこかに引っかかっていたのかもしれない。
もしそうであれば、長い間、声もかけず済まなかったとすら思えた。願わくば娘さんにも私のエールが届いてほしい。
そんなことがあった日の夜、テレビでいわゆる大喜利をやっていて、ふと「金光教の特徴は」というお題をだされたら、私はなんと答えるのかな?と思った時に思いついたのが表題である「来る者は追わず去る者は拒まず」だった。
来る者は追わず…というのは、金光教では、誰にも何の義務を課さない。入信した人を取り込んで抜けられないようにしたり、金品や義務などあれこれと執拗に求めるようなことは一切しない。そのことを表現するのには「来る者は拒まず」では何か足りない気がしていた。「追わない」というほうが向き方としてよりふさわしいように感じる。
そして去る者は追うのではなく拒まないというのは、先にあげた一件が教えてくれたように思う。
これまでも後ろ足で砂をかけるように去っていった人は数えればきりがない。神様への御礼どころか手切れ金のようにお供えを突き出し、御神米すら受け取らず帰っていく人もいた。親の代、祖父母の代からの信心でも、おかげをいただいているのに、もうあんたらに用は無いと言わんばかりの対応に、何度拳を握りしめたか。
でも、お取次ぎをさせてもらっている身としては、神様への御礼を私まで忘れてしまうようなことはできないし、してはならない。
戻ってくることはもう無いだろうが、それでも祈っている。
もしかしたら困ったことがあって悩むこともあるかもしれない。でも今更ばつが悪くて来れるわけもないだろう。ふつうなら「だからいわんこっちゃない」「勝手に出て行って都合がわるくなったら来るやつのことなど知らん、帰れ」と追い返されると思うだろう。でもそんなことはない。ただの「助からねばならない。難儀な神の氏子」として受け入れるだけである。
去る者は追わないというだけでは、そのあたりが伝わらない。去る者は拒まないというほうが近い。
あまり胸を張って本教の良さとか特徴と言えるものではないが、でもこんな金光教を私は愛している。