意味

先日こんなことがありました。
現在、長女が初めての子を出産のため里帰りしております。そうなるとこちらは賑やかですが旦那さまのほうは寂しいものです。食事だって困ります。LINEで送られてきた写真がなんだか痩せたようにみえたのか、おかずを作って冷凍して送るということで、いろいろ作っておりました。早く発送したいということで、宅急便の集荷所がはやくから開いていて、私はふだんそこから送ることがしょっちゅうありますので、行ってくるよと言ったのですが、長女が自分もついていくというので、「ちゃんと自分で届けたいんだな」と思って乗せていきました。

その帰り道、駐車場から道路に出ようとして、すいている時は出てすぐにUターンすると早いのですが、朝は車も来た時より増えていて、宅急便のトラックも脇にいたのでちょっと死角がありました。でもトラックさんもお客さん優先で待ってくれてるならあまり慎重すぎて待たせてもなぁと思い、あっ今なら行ける!と思って出た瞬間、車がこちらに迫ってきていました。ゆるやかにカーブしているので気を付けてはいたのですが、一瞬ドキッとしました。幸い減速してきてくれていたのでサッと出てハザードランプでお礼とお詫びの気持ちを伝えました。

娘に「トラックが行ってから出る方がよいよね」と言われ、そのとおりなのですが「あぁそうか、一人じゃないんだ」「もしすこしタイミングがずれてたら…」といろいろ考えたり、最悪のケースを想像していたら段々怖くなってきました。
「おかげを頂いたんだな」と思ったのですが、そのとき、昨日読んだある先生のお話が頭をよぎったのです。
その先生のお父さんは戦争経験者で、自分のいた部隊は全滅して本土に呼び戻された自分だけ助かったということを後日ある先生に話した時「自分だけ助かったのがおかげであるという話にしてはいけない。お道の神様は、信心しているから助ける、していないから助けないという神様ではない」と諭され、そうした受けとめ方をやめたとき、その意味「なぜ自分は生き残ったのか」を問うことになったというのですね。
ですので私は昨日のそのことをおかげ話にしてはならないのです。お道には戒律というのはまったくないですが、このような生きた戒めによっておのずから律せられていくことで道が道になっていくのだと思います。
確かに、神が人を、信心しているから助ける、していないから助けないということであったら、おそらく最初の人類のところで歴史は終わっているんじゃないでしょうか。信心などわからない、していない、にもかかわらず神様のお働きと出会う。そういうところからしか信心は始まりようがないと思うのです。
神様は意味のないことはなさらない。だとしたら、
「なぜ生かされているのか…そのことが分からない自分こそ、いよいよもって御教えによって救われねばならない私である」
ということではないだろうか。それだけははっきりと解りました。

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