神様に願うこと

人がありがたいおかげを受けてこそ、神様も金光大神様も喜ばれます。
人が助からず、苦しんでいるままでは、神様のお働きが十分に発揮されません。
人が立ち行くことで、神様も金光大神様も立ち行かれるのです。

神様はただ「信心しなさい」と望まれるのではなく、
人が実際に助かり、生活が立ち行くことを何より喜んでくださっているということです。

ところが「願う」というと、ときに「困ったときの神頼み」といった、
あまりよくない響きで語られることがあります。
しかし本来、「願う」という行いはとても尊く、
神様のお働きを引き出す大切な働きかけなのです。

願いとは、たとえば「マッチを擦る」ようなものです。
火――その温かさや明かり――は神様のお働きです。
けれど、人がマッチを擦らなければ火はつきません。
願いは人の“点火”、おかげは神様の“火”です。

また願いは「帆を上げること」にも似ています。
神様の風はいつも吹いていますが、帆を上げなければ船は進みません。
願うとは、神様のお働きを受けとめる準備を整えることでもあるのです。

ですから、願うことは決して卑しいことではありません。
むしろ、神様が働いてくださる場を開く、とても尊い行いです。

どうか皆さん、遠慮せず、素直に
「どうぞお助けください」と願わせていただきましょう。
私たちが願い、立ち行くことこそが、
神様のお働きが実を結び、神様の喜びにつながっていきます。

日常の中では、
人と仲違いした時、腹立ちをこらえたり、言い返す言葉を考えたり、
そういうことには一生懸命になるものです。
しかし、そういうときほど「神様に願うこと」を忘れがちです。

「どうか腹立ちをおさえてください。
どうか仲良くさせてください。
私の中の憎しみの心を取り去ってください。」
そのように願おうとしていないのです。

願うか願わないかで、心の軽さは全く違います。
願えば楽になりますし、願わなければ、自分の心の苦しみの中に
いつまでも閉じ込められてしまうこともあります。

「神様に喜んでいただきたい」と口では言っていても、
その“喜ばれる私の姿”が整わなければ、神様も働きようがありません。
どんなことにも、「願い」という形で神様に向かわせていただく――
そこに助かりへの道が開けていくのです。

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